天国の中で

1

 やがて……少しずつ視界が戻って来る。まだ床には淡い白光が残っている。場所は松の間で変わっていないはずだけれど、ルーシーの姿もジョゼ・スガワラの姿も見当たらない。二人はどこに行ったんだ……?

 後ろを振り返ると、皇宮護衛官の人達もいなくなっている。

 僕は残っている人を探しに、松の間を出て、中庭から長和殿に向かった。


 長和殿に近付くと、外の方から大勢の人の声がする。何だろうと思って、僕は長和殿の陰から外の様子を窺った。

 ……まるで一般参賀の様に、多くの人が東庭に詰めかけている。誰もが長和殿を見上げて、笑顔で手を振っている。

 おかしい。ここには皇族は一人も残っていないはずだ。


 僕は長和殿を抜け出すと、こっそり東庭の人だかりに紛れて長和殿の上の階の様子を窺った。

 長和殿のベランダにはルーシーとジョゼ・スガワラがいた。二人は白い装束に身を包んでいる。

 しばらくして、ルーシーがベランダから群衆に向けて言う。


「皆様、天国へようこそ。あなた方は選ばれた人々です。お喜びください。この天国では地上の悩みや苦しみは一切ありません」


 その言葉に一際大きな歓声が上がる。

 えぇ……そんなに喜ぶ様な事か? 天国がどんな所かもよく分かっていないのに? 不可解だ。どうせこれもエンピリアンの能力を利用したんだろう。それとも夢の中で何か暗示をかけていたとか?


「あなた方はもう空腹を感じません。飢えとは無縁でいられます。暑さ寒さに煩わされる事もありません。衣服は布一枚で済みます。ここでは誰もが平等で、お金も労働も必要ありません。必要な物は既に全て与えられているのです」


 話がうま過ぎる。何か裏があるに違いないと、僕は疑わずにはいられなかった。

 案の定、ルーシーは続けて言う。


「但し、この天国にも約束事があります。エデンの園と同じです。それは六つの約束です。一つ、怒りや憎しみを抱かない事。一つ、誰かを羨んだり妬んだりしない事。一つ、人から奪わない事。一つ、欲のままに物を貯め込まない事。一つ、人を見下したり差別したりしない事。一つ、あなたの天国を疑わない事。この六つの約束が守れない者は天国から追放されて、地獄に落ちます」


 地獄……。天国だけじゃなくて、地獄まで地上に再現されているのか?


「地獄は天国とは逆の場所です。地獄ではあなた方は怒りや憎しみに囚われ、人に嫉妬しながら、人から奪い、それでも欲望のままに底無しに求め続け、人に差別され嘲りを受けながら、天国を見失って暗黒の中を生きなければなりません。たとえ人から憎まれても、人を憎み返さない様に。安らかな心を保ち続けていれば、天国があなた達を守ります。悪人は追放されて、地獄に落ちるのです」


 それが本当だとして……こんな天国に何の価値があるんだ? 何も求めずに委ねるままで、生きていると言えるのか? そうまでして安らぎを求める人がいるのか?

 ルーシーの話が終わると、人々は思い思いの行動を始めた。それぞれの家に帰ろうと歩き出す人、その場で何もせずに立ち尽くしている人、いきなりその場で寝転び始める人、皇居に向かってただ祈る人。

 ……僕はルーシーを追う事にした。



 ルーシーは長和殿から中庭に移動して来た。僕はルーシーとジョゼ・スガワラの行く手を遮って立ちはだかる。


「待て!」

「ああ、向日サン……あなたも天国の住人になりますか?」

「冗談じゃない! 今すぐ東京を元に戻せ! もう実験は十分だろう!」


 僕の怒りを余所に、ルーシーは淡々と答えた。


「そう結論を急がないでください。私達が創った天国と地獄が本当に悪い所なのか、様子を見てからでも良いでしょう?」

「その手には乗らないぞ! 天国に相応しくない人は地獄に落ちるんだろう? 残る人間は決まっている!」

「……困りましたね」


 ルーシーの態度は言う事を聞かない子供に対する様な物だった。僕はますます怒りが募る。


「何故こんな事をする必要があるんだ!」

「人生に苦しむ人がいるからです。生きる意味や目標を見出せず、ただ生きる事に疲れた人がいるからです」


 堂々としたルーシーの答えに、僕は返す言葉を詰まらせた。ルーシーは本当の本当に本心から言っているのか? 本気で大勢の人を救うためにやっているのか?

 人生に苦しむ人がいる。それは事実だ。もし……もし以前の僕だったら、この天国に逃げ込みたいと思っただろうか? あの頃の僕だったら。超能力も何も持たない僕だったら。

 ……他の人達も同じなのか? もしかしてエンピリアン自身も? こんな事は否定しないといけないと強く思うけれど、過去を振り切れない僕がいる。

 僕は恵まれていた。何もできないままの僕だったら、エンピリアンが創った天国を否定できたのか……。これもまた誰かの救いなのか? 日本中の人達が心のどこかで求めていた場所?

 ルーシーは僕の顔を見て、心の底まで見透かした様にニヤリと笑う。


「分かっていただけた様ですね。天国に入る門は狭いですから、向日サンもこの機会を十分に楽しんで行ってください」


 そのままルーシーは正殿の竹の間に入って行った。

 こういう言い方が正しいのかは分からないけれど、宮殿は他人の家だろう。それを勝手に使う事に何も思わないのか? 今この状況でそんな事を考えている僕の方が、おかしいんだろうか?

 立ち尽くしている僕に、ジョゼ・スガワラが話しかけて来る。


「ムコウ、オレといっしょに天国を見て回ろう」

「あなたも……こんな場所が本当に天国だと思ってるんですか?」

「信じられなければ、その目でたしかめろ」


 天国の住人となってしまったジョゼ・スガワラは、超然とした空気を身にまとっている。敵意も悪意も感じられない。

 他にやれる事も無いから、僕は取り敢えずジョゼ・スガワラと一緒に天国を巡回してみる事にした。



 皇居から出た僕達は、まず千代田区をぐるっと回る。まだ真夜中のはずだけれど、足下が明るいから全然暗さを感じない。

 ……何かおかしいと思ったら、街の電気が消えている。道を照らす電灯も、自販機のライトも。天国の展開と同時に停電してしまったのか? それなのに暗くないから不自然で違和感があるんだ。

 携帯電話で時間を確認しようとした僕に、ジョゼ・スガワラが言う。


「まだ地上のジョーシキにとらわれているな。ここでは時間もイミがない」


 そう言われたって、そう簡単には信じられない。僕は二つ折りの携帯電話を開いたけれど、全く反応しなくなっていた。画面は真っ黒で、どのボタンを押してみても何も変わらない。

 電池切れか? それとも完全に壊れてしまったのか?

 どうにかならないかと携帯電話をいじる僕に、ジョゼ・スガワラは再び言う。


「ここではキカイは動かない。そんなモノは必要ないんだ」

「キカイって、テレビやラジオも?」

「そうだ」

「どうやって外の情報を知るんですか? それに娯楽は?」

「何も知る必要はない。外のモノは天国には入れない。何も持ちこめず、何も持ち出せない。天国は天国だけで完結している。それにキカイを使わないアソビはいくらでもある」

「とんだディストピアじゃないですか」

「そう思うのは心がまずしいからだ。ボンノウを捨て去り、快楽を求めない。それがリソウの人間だろう?」


 ユートピアとディストピアは紙一重だな。悟りを開いた仏みたいな人にとっては、あらゆる苦難が存在しない理想郷に見えるんだろうか?

 まだ低俗な僕には分からない。



 僕達は千代田区から南の港区に移動する。

 もう日付が変わってから結構経つし、歩いた距離もかなり長いはずだけれど、眠くもならなければ、疲れもしない。

 天国だから? 地上の常識が全く通用しないのか?

 僕は歩きながらジョゼ・スガワラに尋ねた。


「ジョゼさん、あなたも天国の住人になるんですか?」

「ああ」

「ここで一生を終える気ですか?」

「そうだ」

「何の楽しみも喜びも無く?」

「何回も言わせるな。大きな快楽はいらない。その代わりに、永遠の安らぎがある。ムコウ、過去にとらわれるのはおろかなコトだ。ここには過去も未来もない」


 妙に達観しているジョゼ・スガワラを僕は怪しんだ。全くの別人になってしまったみたいだ。


「多分ですけど、多くの人は天国の暮らしに満足できませんよ」

「かまわない。そういう連中は出て行くだけだ。去る者は追わない」


 そんな話をしながら歩いていると、コンビニで人が言い争う声が聞こえた。

 いつも通りに仕事をこなそうとしている店員と、タダで物を手に入れようと理屈を捏ねている客。どっちが悪いのかは一目瞭然だけど……。

 ジョゼ・スガワラはコンビニに入店すると、二人の仲裁に入った。


「そこの二人、何があった?」


 僕もジョゼ・スガワラの後に付いて入店する。

 まず客が最初に言い訳した。


「ここは天国なんだろう!? 必要な物はタダで手に入るって、言ったじゃないか!」

「人から物を奪うな」

「飢え死にしろってのか!」

「天国にふさわしい人間はうえに苦しまない。たくわえるな」

「そんな……」


 客は信じられないという顔をしていたけれど、ジョゼ・スガワラの堂々とした態度に怯んで、言い返すのをやめた。

 ジョゼ・スガワラは止めの一言を放つ。


「約束が守れないなら、天国から出て行ってもらう」


 客は舌打ちして、すごすごと帰って行った。


「ありがとうございました」


 店員が頭を深く下げて僕達にお礼を言ったけれど、ジョゼ・スガワラは店員にも苦言を呈する。


「なぜまだ働いている? ここは天国だ。もはや労働は必要ない」

「でも……」

「オマエを苦しめるモノは天国には存在しない。地上のコトは忘れろ」

「そんな……」

「天国になじめないなら、出て行くか?」

「い、いいえ! いさせてください! お願いします!」

「わかった」


 争いを収めて、説教も終えたジョゼ・スガワラは、僕に振り向く。


「さて、見回りを続けよう。まだ天国のコトをよく知らない者たちをみちびかないといけない」


 まるで天国の番人だ。もしかして僕も導かれるべき人なのか?

 僕はジョゼ・スガワラの変貌に驚きながらも、もうしばらく彼と付き合ってみる事にした。

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