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 とにかく今は目の前にルーシーがいる。この人を取り押さえれば、エンピリアンは大幅に弱体化するだろう。そう考えて、僕は自分のフォビアを意識した。

 天国が何かは知らないけれど、放っておけば大変な事になる予感がする。僕は自分の直感を信じるぞ。

 僕は強い気持ちでルーシーを睨み付けたけれど、当のルーシーは平然としていた。


「周りをよく見てください。今、この天国を望んでいるのは私ではありません。人々が望んでいるのです。力がある事、勢いがある事、強い事、幸運な事、気持ちいい事――それ等は全て善い事なのです。だから、魅力を感じてあやかりたがる。その逆は全て悪い事で、忌み嫌われます。力が無い事、勢いが無い事、弱い事、不幸な事、気持ち悪い事。世界中どこでも変わりませんね」

「東京にいる人達が天国を望んでいるって言うのか? ある日突然起こる様な、都合の好い救済を?」

「東京だけではありません。世界中の人々が望んでいます。怒りや憎しみを忘れて、安らぎと温もりの中に還りたいと願う事は悪ですか?」

「……そういう弱い人達の心理を利用しているんじゃないのか?」

「純粋な願いですよ。そしてのです。人は誰も心の底では、その身に取り込まれた知恵の実を捨てたがっている……。苦痛もまた我が身、我が心が生み出す物であるが故に。つまらないカルトがのさばる訳ですね」


 そう言うルーシーの言葉だって、宗教っぽくてうさん臭い。

 ますます敵意を強める僕に、ルーシーは嘲笑うかの様に言った。


「哀れですね。知恵の実を捨てられないあなたは、天国には相応しくありません」

「こんな天国なんか願い下げだ!」

「安心してください。これはシミュレーションです。近い内にあなた方に実物をお目にかけましょう。それまで……あなたには一時退席してもらいしょうか」


 ――そこで僕は目覚めた。

 もう朝だ。辺りは明るくなっている。ここはホテルの中……。

 隣のベッドに目をやると、真桑さんはまだ眠っていた。嫌な夢でも見ているのか、時々顔を顰めて、小声で何やら唸っている。起こそうかとも思ったけれど、それよりも自分が見た夢の内容が気になった。

 あれを夢で片付けていいんだろうか? 僕はホテルのテレビを点けて、ニュースを見ながらぼんやり考えた。


 今年の梅雨入りは遅れているらしい。まだ涼しい日が続いている。毎年毎年、気候が不安定だ。十年後、二十年後はどうなっているのかと心配になる。

 ふとルーシーの言葉を思い返す。浮世の不安を忘れて、天国に行って……それで、どうなると言うんだろう? 生きたまま天国に行くと、どうなるんだ?

 僕には分からない。……夢に囚われ過ぎだろうか? エンピリアンとの戦いに不安を抱いているから、おかしな夢を見てしまった?


 真桑さんはいつの間にか静かになっていた。その表情は安らかだ。……ちゃんと呼吸をしている。ただ眠っているだけだろう。

 時刻は午前六時半。いつもなら真桑さんもとっくに起きている時間のはずだけど、まだ起こさなくてもいいかな……。このまま放っておいたら、いつまで眠っているか見てみよう。


 真桑さんは午前七時に目を覚ました。大寝坊して慌てる姿をちょっと期待していたんだけど、しっかりスマートフォンで目覚ましのアラームをかけていた。少し残念。


「おはよう、向日くん」

「おはようございます。いつもより遅かったですね」


 僕の指摘に真桑さんは少しバツの悪そうな顔をした。


「……変な夢を見ていたよ」

「どんな?」

「東京が天国になる夢だった」

「その夢って、東京が白い光に包まれて――」


 同じ夢を見たのかも知れない。そう思って、僕は真桑さんに言ってみた。

 真桑さんは凄い勢いで夢の話に食い付く。


「君も見たんだな!?」

「ええ、はい。どうやら……普通の夢じゃないみたいですね」


 真桑さんはスマートフォンを取り出して、素早く操作を始めた。


「やっぱり……他にも同じ様な夢を見た人達がいるんだ。SNSでおかしな夢の話題が共有されている」

「何人ぐらいですか?」

「分からない。だが、百万件以上の反応がある」

「それだけ多くの人が夢を見た……?」

「ああ――いや、そうとは限らない。当事者じゃなくても、面白半分で反応する人もいるだろうし、野次馬的なネットメディアや分析家もいるだろう」


 僕は夢の中でルーシーに言われた事が気になった。「願えば叶う」……。


「どのくらいの人が本気にしてますか?」

「……分からない。本当に同じ夢を見た人なら、かなり本気にするかも知れない」

「エンピリアンの目的は地上に天国を再現する事……で、良いんですよね?」

「夢の中の話が本当なら」


 ああ、夢の話をどこまで信じるかって問題もあるんだった。仮に夢がエンピリアンの見せた物だったとして、その夢の中でルーシーが言った事が本当とは限らない。


「取り敢えず、後で上澤さんに話をしてみます」

「そうしてくれ」


 僕達は不安な気持ちで、朝の時間帯を過ごした。

 ホテルの窓から見える風景は、日常と大きく変わらない様だけど……。

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