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 僕がペルセウスの体に触れると同時に、今まで僕を避けていた液体が上から覆い被さる様に降って来る。同時に、僕とペルセウスの体は自由落下を始めた。まるで泡に包まれているみたいに、僕のフォビアが周りの液体を防いでいるから、こんな風になっているんだ。

 このままどこまで落ちて行くのかと、僕は不安になる。日富さんのストレージに底はあるんだろうか? 精神世界で物理的な衝撃を受けたら何が起こる?

 僕には分からない事だらけだ。

 その時、日富さんの声が聞こえた。


「向日くん、フォビアの力を使ってください!」

「もう使ってますよ!」

「もっと強く! そうすれば、この精神世界から脱出できるはずです!」

「強くって言われても……」


 僕の視界は全方位、謎の液体に覆われている。その内、落下しているという感覚も無くなって来た。僕は死んだ様にぐったりしているペルセウスを見る。彼が目覚める気配は一向に無い。

 ……フォビアを強める方法って? 以前フレッドさんが話してくれた方法で良いのかな? 僕の気持ち、僕が何をしたいか、僕がどうしたいか、それを意識する事。

 今、僕は……ペルセウス――いや、ジョゼ・スガワラを助けたい。彼を哀れむべき人だと思うなら、ただ哀れむだけじゃいけない。記憶の混濁に沈む彼を掬い上げる事こそ、僕が当然なすべき道だと思う。

 僕はジョゼ・スガワラの胴に手を回して、脇に抱え上げる様にした。そして視線を上に向ける。


。まだまだ世の中、捨てたもんじゃないさ」


 それは僕自身に向けた言葉でもあった。一度は捨てようとした命だけれど……。

 僕の周囲の液体が、僕の様々な過去を見せ付ける。生まれてから今日この日まで。幼稚園、小学校、中学校、そして短かった高校生活、両親、祖父母、富士裕花、中椎アキラ、多倶知選証、平家穂乃実、F機関……の記憶。

 周囲が少しずつ明るくなって、やがて真っ白に染まって何も見えなくなる……。



 僕はベッドの上で目覚めた。ジョゼ・スガワラを脇に抱えていた感覚が残っているけれど、実際には何も抱えていない。その代わりに日富さんと手を繋いでいる。


「おはよう、向日くん。どうだったかな?」


 上澤さんが僕の顔を覗き込んで、聞いて来る。

 僕は重い体を起こしながら返事をした。


「どうって言われても……変な夢を見ていました」

「どんな夢?」

「精神世界で日富さんと会って、プールみたいなのに飛び込みました」

「エッチな夢?」

「いや、全然エッチじゃなかったですけど……」


 この人は何を聞いているんだ? 日富さんと一緒にプールに行った夢だと思っているのか? プール自体にエッチな要素は無いだろ……。

 僕は呆れながら、手を繋いでいる日富さんの顔色を窺った。日富さんは僕に向けて優しい笑みを浮かべていて、僕は急に気恥ずかしくなる。僕が見ていた夢の内容も、日富さんは全部お見通しなんだろう。どんな事を考えていたのかも。

 僕が視線を逸らすと、日富さんは両手でそっと僕の左手を包んだ。


「ありがとうございました。ペルセウス――ジョセ・スガワラは助かりますよ」

「そうなんですか?」

「はい。今、目覚めます」


 日富さんの言葉通り、ジョゼ・スガワラは目を覚ました。


「ん……? おおっ!? 何だぁ!?」


 ジョゼ・スガワラは自分の体が拘束されている事に驚く。そして慌てた様子で辺りを見回し、日富さんと目を合わせると、顔を引き攣らせた。


「ヒィッ」


 そこまで怖がらなくても……と思うけれど、日富さんの恐ろしさはストレージに落とされた人でないと分からないんだろう。

 当の日富さんの表情を窺うと、少し悲しそうにしている様に見えた。

 僕は小さく息を吐いて、ベッドから下りる。


「大丈夫ですか?」

「はい」


 日富さんの問いかけに、僕は一度頷いて返した。体も心も何ともない。ただ少し変わった夢を見ていた感覚だ。

 ジョゼ・スガワラは僕をジッと見詰めていた。

 視線に気付いた僕は、ジョゼ・スガワラを見詰め返す。


「何か?」

「いや……」


 ジョゼ・スガワラは溜息を吐いて視線を逸らした。

 言いたい事があるなら言えば良いのに。それとも人前では言い難い事かな?


 少しの間を置いて、上澤さんがジョゼ・スガワラに話しかける。


「おはよう、エンピリアンのペルセウス事ジョゼ・スガワラくん」


 ジョゼ・スガワラは上澤さんをちらりと見た後、話す事なんか無いと言う様に顔を背けた。


「半礼寅卯に君を引き取って欲しいと言ったんだが、断られてしまってね。君なんか知らない奴だと」

「……それで?」

「薄情だとは思わないか?」

「別に」


 上澤さんはジョゼ・スガワラに元仲間への反感を誘っているけれど、当の本人の反応はそっけない。切り捨てられるのは当然だと思ってるみたいだ。


「こちらに寝返ってみないか?」

「何だと?」

「連中に義理を立てる事は無いだろう」


 ジョゼ・スガワラは長らく沈黙していた。心が揺れ動いているのか、それとも聞く耳を持たないという事なのか……。

 ジョゼ・スガワラが返事をする前に、上澤さんは第一研究班の人達に指示する。


「彼の拘束を解いてやってくれ」

「えっ? しかし……」

「構わない。有事の責任は私が負う」


 上澤さんは班長の小鹿野さんの懸念を押し切った。

 小鹿野さんは不承不承といった様子で従う。


「籤、炭山」


 名指しされた籤さんと炭山さんは、ジョゼ・スガワラの胴をベッドに括り付けていた拘束を解いた。

 ジョゼ・スガワラはヘルメットを外して体を起こすと、関節を動かして不調が無いか確かめた後、不信の目で僕達を見る。

 それでも上澤さんは意に介さず告げる。


「スガワラくんには、ここの地下で暮らしてもらう事になる。悪い様にはしないから大人しくしていてくれ」


 ジョゼ・スガワラは返事をしなかった。

 炭山さんがジョゼ・スガワラにヘッドギアを被せて、籤さんと柾木さんも連れて、三人がかりで彼を地下室に連行する。

 僕はそれを見送った後、上澤さんに尋ねた。


「これで良いんですか?」

「良くもないが、悪くもない……かな。向日くん、ご苦労だった。日富くんも」


 どうやらこれで僕の役目は終わりみたいだ。

 僕と日富さんは一緒に第一実験室を後にする。

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