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 上澤さんからバレンタインデーのプレゼントをもらった僕は、自分の部屋に戻って大きな溜息を吐いた。

 とにかく新しい仕事の話じゃなくて良かった。お言葉に甘えて、今日はゆっくり休ませてもらおう。

 僕はラッピングされた小さな箱をリビングのテーブルの上に置いて、何をするでもなくぼんやり過ごす。箱の中身は多分チョコレートだろう。他の物は考え難い。

 上澤さん以外からもお返しがもらえたりするのかな? お返しのお返しって、どうすれば良いんだろう……。いや、今からこんな事を考えるのは捕らぬ狸って奴だな。

 取り留めもない事をぼやぼや考える。自分でも余り良い事だとは思わないけれど、今は何をするにも気分が乗らない。遊ぶのも勉強するのも何だか疲れそうだ。だからって眠たい訳でもない。ゆっくり休みたいとは思っているんだけれど、もしかしたら僕は休み方が分からないのかも知れない。


 こういう時にどうすればいいのか……。取り敢えずジムにでも行って、体を動かそうかなと考えていた時、インターホンのチャイムが鳴る。

 時刻は午前十時をちょっと過ぎた頃。誰が来たんだろうと出てみると、穂乃実ちゃんと初堂さんだった。


「どうしたんですか?」


 穂乃実ちゃんはともかく、初堂さんが来るのは珍しい。

 二人はお互いに顔を見合わせる。視線で無言のやり取りをしているみたいだ。

 それから初堂さんが口を開いた。


「今日はバレンタインデーですよね? その、去年のお礼と言いますか……。お口に合うと宜しいのですが……。あっ、中身はチョコレートですので、はい」


 そう言って、初堂さんと穂乃実ちゃんは同時に小さな箱を僕に差し出した。


「ありがとうございます。穂乃実ちゃんもありがとう」


 僕は二つの箱を受け取って、小さく頭を下げる。


「……甘い物はお嫌いだとかではないですよね?」

「ええ、大丈夫です」


 やっぱりこういうのは照れ臭い。

 バレンタインデーでチョコをもらうのなんて、何年振りだろう? 中学校からそういうのとは縁が無かったからなぁ……。小学校の時は、まあ裕花からもらったりした事もあったんだけど。

 そもそもの始まりが義理みたいな物だったから、もっと社交辞令的な義理義理したのを予想していたんだけどな……。いや、これも社交辞令なのか?


「えーと、お茶でもいかがですか? お菓子もある事ですし」

「いえ、いえいえ、私はこれで失礼します」


 初堂さんは慌てて逃げる様に帰って行った。穂乃実ちゃんもあわあわしながら僕にぺこりと一礼して、初堂さんの後を追う様に去って行く。

 ……こういうのって、やっぱり僕一人で食べるべきなのかな?


 僕はリビングに戻って、三つになったバレンタインデーのプレゼントの箱をぼんやり見詰める。

 どれから食べるのが良いんだろう? 今は冷蔵庫に入れておいて、昼食後に食べるのが良いかな? 食べ比べみたいな事をしたら悪いよなぁ……。

 そんな風にまた取り留めもない事を考えていると、またチャイムが鳴る。今度は誰だろうと思って出てみると、沙島さんだった。


「何かご用ですか?」

「去年の義理返しかな。バレンタインデーのプレゼント。フォビアの皆を代表して、私から君に渡す事になったんで。はい、そういう訳で」


 沙島さんは金属のお菓子箱を僕に差し出した。


「ありがとうございます」


 僕が受け取った後で、沙島さんは小声で僕に聞く。


「ところで、初堂さんと平家ちゃんは……もう来た?」

「ええ、はい。それが何か?」

「あの二人、チョコを手作りしたいって言って、私が指導したから。あれからどうしたのかなぁって思って」

「そうだったんですか? ……沙島さん、お菓子作るんですね」

「私も元々は甘い物が好きだったの。ある時から苦手になったんだけど、甘くない様に作ってみようとか、色々努力したんだよ。それに自分は食べられなくても、人に食べてもらう事はできるから」

「食べてもらう?」

「心理学用語で言うところの『代償』だね。甘い物を食べたいんだけど、自分じゃ食べられない。そういう欲求を、他人に食べてもらう事で満たしてもらうの」


 自分がやりたい事を代わりに誰かにやってもらって満たしてもらう? そういう事もあるのか……? 他人に幸せになって欲しいって気持ちも、代償の一種?

 保健体育の授業で習った気がするな。抑圧とか昇華とか……。

 今、難しい事を考えるのはやめておこう。


「沙島さん、お菓子もある事ですし、お茶でもどうですか?」

「お茶? そうだね。いただこうかな」


 沙島さんは甘い物が苦手だけれど、僕のフォビアがあれば甘い物への拒否感を和らげる事ができる。そういう訳で、実は僕と沙島さんは何度か甘い物を食べに出かけたりしている。

 その時々で他の人が一緒だったり一緒じゃなかったりするから、男女の付き合いがあるとかじゃない。断じて。秘密って訳でもないし。芽出さんとか窯中さんとか子供達とか、他の人達とも外出してるからね。諸人さんとか由上さんとか、男の人達とも外出してるからね。

 ……僕は誰に言い訳しているんだろう?


 僕の部屋に上がった沙島さんは、リビングに置いてある三つの箱に目を留めた。


「あら? 初堂さんと平家ちゃんと……もう一個のは?」

「これは副所長の上澤さんからもらいました」

「へー、副所長がねぇ……。モテモテじゃないの」

「義理ですよ。皆さんと一緒で、去年のホワイトデーのお返しでもらいました」

「そういうのって、どこで覚えたの?」

「覚える?」

「ホワイトデーに自分から贈り物をするとか」

「いや、深い意味はないですけど……お世話になったので。でも、お中元やお歳暮を渡すのも、どうかなって感じで。このぐらいの方がいいのかなと」

「成程ね」


 お茶を用意しながら答える僕に、沙島さんは感心した様に頷く。


「お砂糖は要らなかったですよね」

「うん」


 僕は早速、沙島さんからもらったお菓子箱を開けた。中にはチョコレートやクッキーが詰められている。一人で食べるには多い量だ。こういう時は何人かで分けるのがいいんだけれど、男同士でお茶会っていうのも変な感じがして、男の人を誘う気にはなれない。

 初堂さんと穂乃実ちゃんからもらった分は、一旦冷蔵庫に入れておこう。


「副所長の分、開けてもいい?」

「ええ、いいですよ」


 沙島さんの問いかけに、僕は即答した。まさか上澤さんに限って、手作りチョコだって事はないだろう。

 そう思っている間に、沙島さんはラッピングを解いて、感嘆の息を漏らした。


「はぁー、フランスの超高級チョコじゃん……。やっぱ副所長ともなれば、お金のかけ方が違うわ。セレブだわ」


 箱に文字が書いてあるけれど、フランス語は読めない。ただ高級そうだっていうのは見ただけで分かる。

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