アメリカからの来訪者
1
それから一ヶ月、僕はフォビアの訓練、高校の勉強、ジムでの運動と、充実した日常を送った。海外からフォビアが来る事もなく、平穏そのものだった。
その間にも少しずつだけれど研究所内で変化が起きる。まず元解放運動の三人が、完全に地下から解放された。そしてハイフィーバーの友地さんとブラッドパサーの古住さんは、C機関に移籍する事になった。ワースナーの窯中さんは一人だけウエフジ研究所の寮に残る。まあ他の女性陣と仲が悪い訳でもないから大丈夫だろう。
他には特に目立った事は無かったと思う。地下三階の石建さんと二度目の外出をしたぐらいかな? 一時間ぐらいの短い外出で、何も起こらなかったから、取り立てて言う様な事は何も無いけれど。
時は過ぎ……十一月になって、僕は上澤さんに副所長室に呼び出された。今度は何の厄介事だろうと、心の中ではちょっと嫌な気持ちだった。
それが顔に表れていたのか、上澤さんは僕を見て眉を顰める。
「そんなに嫌そうな顔をしないでくれ」
「いや、そういう訳じゃ……」
図星だから強く否定できない。
そんな僕に上澤さんは一つ息を吐いて告げた。
「安心してくれ。今回は敵とか戦いとは無関係だ。誰かの護衛でもない。アメリカからフォビアの研究者が来るから、ちょっと相手をしてもらいたい」
「アメリカ……? 英語で話さないといけない感じですか?」
何か脅威が迫っているとか、そういう事じゃなかったのは良いんだけれど……どうしよう? 英語の読み書きや聞き取りはできても、上手に会話できる自信は無い。
困っている僕に上澤さんは小さく笑って言った。
「大丈夫だ。その人は日本語もできる」
「アメリカと共同でフォビアの研究でもしてるんですか?」
「アメリカだけではないぞ。フォビアの研究は世界中にネットワークがある。国際学会はイギリスで開かれ、論文はゲール語で発表する」
「……イギリスは分かるんですけど、ゲール語って何ですか?」
「アイルランドやイギリス北西部の言語だ」
「イギリスなのに何で英語じゃないんです?」
「二つの理由がある。一つは使用者が少ないからだ。もう一つはフォビア研究の第一人者が、アイルランド系の人物だったから」
「使用者が少ないと何が良いんですか?」
「学会と言うからには、論文を発表しなければならない。だが、フォビアの事は各国とも伏せておきたい。新たな軋轢の元となるからな。使用者の少ない言語なら、論文を発表しても読めないだろう」
「そんなんで良いんですか? 第三者からの評価はどうなってるんです?」
事情は分かるけども、明確な成果を上げていないと評価のしようが無いんじゃないだろうか? こんな事で国がお金を出してくれるのか? それともちゃんと論文を読める人が他にもいて評価してくれる?
「心配ない。学会内で論文の審査があって、質の良い物を選んで専門誌で取り上げるから大丈夫だ。その専門誌に掲載される事が、分かり易い成果の基準になる」
「でも、その専門誌って……」
「ゲール語だな。正確には基本的な文章はゲール語、古い専門用語はラテン語、新しい専門用語はオランダ語で書かれている」
「えぇ……そんなの誰が読めるんですか?」
「何事も慣れだよ、慣れ。それよりアメリカから来る研究者の話、了解してもらえたかな?」
上澤さんは改めて僕に尋ねて来た。ここで嫌だとは言えないし、断る理由もない。
「はい。何を話されるのか分かりませんけど……」
「フォビアについての簡単な話だと思う。少なくとも君の前で専門的な難しい話はしないだろう」
「その研究者って、どんな人なんですか?」
「女性の医師だよ。Dr.マリア・オサリヴァン。児童精神医学の専門家で、三十代の若手だ」
「三十代で若手……?」
「その国の制度にもよるが、学士から医師免許取得まで四年、基礎教育と専門教育で更に六年。飛び級でもない限りは三十代が普通だ」
「じゃあ、上澤さんは……」
若そうに見えるけど、実は三十代――いや、四十代なのかも?
上澤さんは苦笑いして答え難そうにしていた。聞いちゃいけない事だったかな?
「日本では精神医学と神経医学は区別されている。片や精神、片や物理だ。今でこそ境界が曖昧になって来ているが、一つでさえ難しいのだから、二つを修めるのは困難を極める。その隙間にF機関は入り込んでいる。故に、私の様な若輩者でも両者の縛りを受けずに組織の重要な地位につける訳だ」
「つまり……? 上澤さんは医師免許とか持ってないんですか?」
「いや、医師免許は持っている。それに一応は神経医学会にも、精神医学会にも籍を置いている」
「一応って」
「どちらにも余り顔を出さないからな。なかなか実務と研究の両立は難しいよ」
大人って大変なんだなと僕は思う。完全に他人事だけど。高校の勉強でも頭を抱えている僕は、偉いお医者さんにはなれそうにもない。
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