6

 僕はレディ・サファリングに向けて言った。


「他人にフォビアを利用されて、お前は平気なのか?」

「しょうがない。フォビアに目覚めたら、まともな生活には戻れない」

「そんな事は無い!」


 諦めを口にするレディ・サファリングに、僕は堂々と言い返す。

 少しの間を置いて、レディ・サファリングは顔から笑みを消して、僕に反論した。


「君は……君自身はどうな? まともな生活に戻れると思うか?」

「僕は……」


 僕は戻れるとは即答できなかった。他の人はともかく、僕自身は分からない。

 答えあぐねている僕を見て、レディ・サファリングは再び口元に笑みを浮かべる。


「私達は同類な。普通の生活は無理な。恋人も家族も諦めてる」

「フォビアを治したいとは思わないのか?」

「……治す?」

「僕は他の人達がフォビアを克服するのに協力している。寧ろ、そっちが本業だ」

「治せると言ってるか? 君自身は無理でも?」

「そうだ。僕自身は無理でも、僕は他の人のフォビアを治せる」

「私も治せるか?」

「本気で治そうと思ってるなら」


 僕は本気だった。

 誰のどんなフォビアだって……。いや、無理かも知れない。バイオレンティストのフォビアは完全に無効化できなかったし。だけど、レディ・サファリングのフォビアなら何とかできるかも……。


「私みたいな外国人でも?」

「そんなの関係ない! 僕はフォビアに苦しむ人、皆の助けになりたいと思ってる」


 レディ・サファリングは笑みを強調する様に、口元を一層深く歪めた。


「一つ、良い事を教えてあげる。私の本当のターゲットは、君な。君がどのくらい脅威になるか、見定めに来た。Y社の依頼は表向きの理由。あんなのは成功しようが失敗しようが、どうでもいいな」


 じゃあ、まんまと誘い出されたって訳か?

 僕は周囲を警戒して身構える。ターゲットが僕だという話が本当なら、どこかに彼女の仲間が潜んでいるはずだ。


「君の実力は分かった。確かに、脅威な。私のフォビアが効かなくなった」

「僕をどうするつもりだ?」

「処分するつもり……だった」


 処分と聞いて僕は恐れを感じたけれど、「だった」と言われて困惑する。


……?」

「フォビアが通じない以上、どうしようもないな。それに――」

「それに?」

「君には借りがある」

「借り?」

「私は君と一度会っている。憶えてないか?」


 僕は少し黙って考えた。

 ……分からない。どこかで会ったか?


「バスの中、痴漢から助けてくれた」


 レディ・サファリングは帽子を取って、僕に素顔を見せた……けれど、正直よく分からない。

 痴漢の被害者だった女の人か……。あの時の人、こんな顔だったっけ? 俯いてばかりで視線を合わせもしないから、よく見えなかったんだよな。うーむ、そう言われてみれば、そんな気もしなくはない程度の感覚だ。

 ピンと来ない僕を見て、レディ・サファリングは吹き出した。


「ふふふ、分からない? 私の変装は完璧な。でも、ちょっと寂しい」

「本当に……あの時の?」

「そう、あの時はフォビアの調子を確かめていたな。だから、君は私を助けなくても良かった」


 余計なお世話だったと言いたいのか?

 痴漢は冤罪――いや、冤罪ではないか……。触ってたのは事実だし。


「だけど……うれしかった。どこの国でも同じな。良い人に会えると、うれしいよ。良い人、優しい人、勇気がある人。だから、私は君を見逃す」

「見逃す?」

「安心してな。もう仕事で日本に来る事はない。君がいる限りな。だから、君も私を見逃してな?」


 素直にレディ・サファリングを信じて良いのか、僕は迷った。

 九割ぐらいは信じてもいいんじゃないかと思っている。残りの一割は……。


 僕が返事を躊躇っていると、レディ・サファリングは急に駆け出して転落防止柵を乗り越え、ホテルの屋上から飛び降りた。

 ここって二十階ぐらいあるぞ!?

 アキラの事を思い出して、死ぬ気なのかと焦ったけれど、レディ・サファリングは小さなパラシュートを開いて、下の道路に停車していた大型トラックの荷台に見事に着地する。

 トラックの荷台にはスポンジみたいな物が敷き詰められていて、その中にレディ・サファリングはズボッと埋まって姿を消した。


 逃亡のために仲間が地上で待機していたのか……。

 僕は走り去るトラックを見送って、深い溜息を吐く。

 しかし、とんでもない度胸だ。事前に計画していたにしても、何十mもの高さから飛び降りるなんて、できる事じゃない。

 地上のトラックも豆粒みたいに小さく見えるし、風に煽られでもして少しでも落下地点がズレていたら、どうなっていたか……。

 アキラの死がフラッシュバックして、僕は目を閉じ、首を横に振った。


 僕は鬱な気分で、エレベーターを使って一階に戻る。その頃には既に発表会場の片付けが始まっていた。

 僕を追いかけていた警備員の人達は、僕の事なんかすっかり忘れたみたいだ。芸能人を狙っている訳じゃないと分かって、興味を失ったんだろう。

 ホテルの玄関で笹野さんが僕を出迎える。


「向日くん、何があったんだ?」

「レディ・サファリングを見付けました。取り逃しましたけど」

「……とにかく無事で良かった」

「もうレディ・サファリングは日本に仕事をしには来ないみたいです。そう言ってました」

「それは何よりだ。君は立派に役目を果たしたよ」


 笹野さんの声は妙に優しくて、僕を慰めているみたいだった。

 そんなに落ち込んでいる様に見えるのか?


「ちょっと消化不良な感じです」

「レディ・サファリングを取り逃した事?」

「ええ、まあ」


 本当は取り逃した事よりも、日本に仕事をしに来る事はないという発言が本心か確かめられなかった事の方が気になるんだけれど、今更ごちゃごちゃ言ってもしょうがないから、そういう事にしておいた。


「気にすんなよ。誰も逮捕しろとまでは言ってないから」


 結局そこに尽きるんだろう。S社は無事に新商品の発表会を終え、僕に求められていた役割は果たされた。それ以上の事は、誰も望んではいなかった。

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