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 帰りも僕達はバスに乗って研究所の近くまで帰る。僕は買ったばかりのノートパソコンが入った箱を大事に抱えて、座席に腰を下ろした。隣には穂乃実ちゃん。

 バスの中は混んでいる訳じゃないけれど、途中から乗車した女の人が一人、空席に座らずに吊革に掴まって立っていた。何か理由があるのかな? 不思議な人だ。同時に乗った黒い帽子を被っている男の人は、後ろの方の空いた席に座っている。

 僕は吊革に掴まって立っている女の人をボーッと見ていた。本当にただ何となく見ていると、女の人の近くに座っていた中年の男性が、すっと手を伸ばして女の人のお尻を触り始めた。

 えっ、痴漢……?

 僕はびっくりして周りの人達の反応を窺う。皆、女の人には注目していないから気付かない。

 いやいや……おかしくない? おかしいってのは、僕以外が痴漢に気付いていない事じゃない。そういう意味じゃなくて、こんな所でやっちゃうの? こんなのバレるに決まってるじゃん。混んでもいないバスの中で、しかもたった一人だけ吊革に掴まって立ってる人だよ?

 湿度の高い季節だけれど、女の人は特に露出の多い服装って訳じゃないし、誘惑されるとも思えないのに。頭おかしいのかな? 普通だったら痴漢なんてやらないよ。犯罪だもん。実は知り合いだとか……と思ったけど、痴漢は同時にバスに乗った男の人ともまた違うし。

 女の人は手を振り払おうとするけど、痴漢は全くやめようとしない。黙って見過ごす訳にはいかない。義を見てせざるは勇無きなりだ。アキラ、僕に勇気をくれ。あの時は出せなかった勇気を。僕は固く決心して告発した。


「痴漢です!!」


 その場の全員が動きを止めて僕を見る。僕が指差した先では、一人の男性が女の人のお尻を触っている。突然の事態に、痴漢は手を引っ込めるのも忘れて、ただただ硬直していた。

 どよめくバスの中で、運転手さんはバスを停車させて、事情聴取を始める。


「どうしましたか?」


 運転手さんの問いかけに、女の人は怯えた顔で痴漢を指す。


「いや、違うんだ。これは……」

「何が違うんです?」

「取り敢えず、警察を呼びますね」

「ま、待ってくれ、私は……。これは違うんだ。魔が差したんだ。手が勝手に動いてしまった。悪意は無かったんだ」


 痴漢は狼狽えてばかりで、まともに言い訳もできない様子だった。

 ……だったら、何で痴漢なんかしたんだ? 大勢に現場を目撃されているから言い逃れもできない。逃げようにも、ここはバスの中だ。

 穂乃実ちゃんが僕を見て、不思議そうな顔で問いかけて来る。


「チカンって? 何があったんですか?」

「何って……悪い人がいたんだよ」


 僕は適当にごまかした。まさか詳細に説明する訳にもいかない。小さい子がいる前で何て事をしてくれたんだ。



 それから十分後にパトカーが到着して、痴漢は警察の人にバスから降ろされた。

 被害者の女の人と、それから証言者として告発者の僕と、もう一人……スマートフォンで犯行現場を録画していた黒い帽子を被った男の人が、警察に詳しい話をするために残る事に。

 僕は穂乃実ちゃんと荷物を皆井さん達に預けて、バスから降りた。


 最初に男性の警察官が女の人に事情を聞こうとしたけれど、女の人は警戒して身を引いた。痴漢に遭ったばかりだから、男の人が怖いのかも知れない。代わりに女性の警察官が話を聞く事に。

 男性の警察官は困った顔で頭を掻いて、僕に話を振った。


「えー、まずは君から聞こう。どういう状況だったか言える?」

「あの男の人が痴漢してたんですよ」


 僕はすっかりしょぼくれている中年の男性を指して言う。


「その時の位置関係を教えてくれるかな?」

「女の人が吊革に掴まって立っていて、そのすぐ横にあの男の人が座っていて、僕は少し離れた後ろの席から見ていました」

「被害者と加害者、二人はどんな様子だった?」

「女の人は男の人の手を払い除けようとしていました。それでも男の人はやめる素振りを見せなくて」

「ありがとう。成程ね。それで……」


 次に男性の警察官は帽子を被った男の人に視線を向ける。


「あなたはどうして録画を?」

「確実な証拠を残しておかないといけないと思って。後で注意はするつもりでした」

「データを渡してもらえますか?」

「コピーして送信しますよ。それか、どっかにアップしてもいいですけど」

「私のスマホに送ってください。念のために、あなたの連絡先も」

「はいはい」


 更に一方では、もう一人の男性の警察官が、痴漢の容疑で中年の男性に話を聞いている。


「おじさん、どーして痴漢なんかしちゃったんですか? いい年して、家族もいるんでしょう?」

「いや、違うんです、本当に。いやらしい気持ちは無かったんです」

「気持ちじゃなくて、行為が問題なんですよ。触ったんでしょう? 目撃者も大勢いて録画までされて、言い訳できませんよ」

「確かに触りました。それは認めます。でも……」

「でも?」

「本当に、無意識だったと言うか……ちょうど、そこにあったから……」

「そんな言い訳、初めて聞きましたよ」

「そもそも、ああいうタイプが好みって訳じゃなくて」

「好みだとか好みじゃないとかは関係ないでしょう? 余計に酷いですよ」


 僕がやる事はもう何も無さそうな感じだ。証拠はそれなりに揃っているし、当人も認めているし、すぐに終わるだろう。

 僕は被害者の女の人をちらりと見た。女の人もこちらを見ていて、僕と目が合うと慌てて視線を逸らす。僕は少し気分を悪くする。そんな逃げる様に顔を背けなくても良いじゃないか……。


「それでは、ご協力ありがとうございました」


 一通り話を聞き終えた警察の人達は、中年の男性をパトカーの後部座席に乗せて去って行った。

 僕は小さく溜息を吐いて、次のバスを待つ。女の人はどうするんだろう……と思っていたら、黒い帽子を被った男の人と、連れ立って歩いて行った。

 ……二人は知り合いだった? それとも、さっき知り合いになったのかな?

 男女の機微なんて僕には分からない。

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