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ペンテコステが終わったんだろう。武道館の中からときじくの会の信者達がぞろぞろと出て来た。そして武道館の裏手に大勢の警察官がいる事に気付いて、何事なのかと騒然としている。皇居が近いので、皇宮護衛官の人まで様子を見にやって来た。
ときじくの会の信者達は、会長が逮捕されたと知って動揺している。警察の前での現行犯だから、会長にどんなコネがあっても言い逃れはできないだろう。
全教一崇教にも関わっていた例の国会議員は、危険な宗教団体に二度も接触していた事になるから、とんだとばっちりだけど……自業自得だな。票と金目当てに無節操に関係を持つから、こんな事になるんだと学習してもらおう。
それから僕とマテオ牧師と通訳の人も、警察の人にその場で事情聴取された。僕は超能力の事を隠して、ときじくの会がマテオ牧師に会の宣伝活動に協力する様に強要しようとしていた事だけを伝える。
聴取の時間は三十分弱、何だかんだで僕とマテオ牧師と通訳の人は、逮捕されずに済んだ。
僕はときじくの会の人を一人、ぶん殴って気絶させてしまったんだけれど……まあ良いや。追撃もしてないし、正当防衛の
警察の人達の大半が帰った後で、僕はマテオ牧師にスペイン語で話しかけられる。
「¡Muchas gracias!」
びっくりしてどう反応して良いか分からない僕に、通訳の人が何を言っているのか教えてくれた。
「どうもありがとう……と言っています」
「あぁ、そうなんですか? どういたしまして……と伝えてください」
通訳の人とマテオ牧師は、しばらく話し合っていた。
何か問題でもあったんだろうかと思いながら見ていると、マテオ牧師と通訳の人は同時に僕を見る。
「マテオ牧師があなたにお話があるそうです」
「はぁ」
一体何だろう? 面倒な事じゃないだろうな?
僕は気乗りしない声で返事をした。マテオ牧師は真っすぐな目で僕を見て、長々とスペイン語で話す。真剣さは伝わるけれど……何を言ってるのか全く分からない。
通訳の人はマテオ牧師の言葉に驚きながら、少し遅れて日本語に訳す。
「マテオ牧師は神のお導きで、あなたに会うために日本に来たそうです」
「僕の事を知っているんですか?」
僕の問いかけを通訳の人はマテオ牧師に伝える。
マテオ牧師は小さく頷いて答えた。
「神のお告げでは、日本に行くべきではないと……。¿Que dices, Pastor Mateo?」
通訳の人は驚いてマテオ牧師に問いかける。マテオ牧師は神様に日本に行くべきじゃないと言われてたのに、敢えて来日したのか? 熱心な教徒なのに何故……?
通訳の人も疑問だったんだろう。マテオ牧師と通訳の人は二つ三つ短い言葉を交わした後、改めて僕の方を向いた。
「神のお言葉は……神を失いたくなければ、日本に行くべきではないと。日本に行けば良くない事が待っている。それでも良ければ行きなさい。覚悟して進めば新たな道が開けるでしょう……と、だからマテオ牧師は日本に……神を失いに来た……?」
またマテオ牧師と通訳の人は二人で話を始めた。
そして再度、僕に話をする。
「マテオ牧師は薄々気付いていたそうです。神の正体に。神の使いとしての故郷での暮らしは幸せでしたが、最近は余り神の言葉が聞こえなくなっていた。……だから、日本に行くべきではないというお告げを聞いた時に決めた。真の罪とは罪を隠す事、疑いを持った自分の心を偽る事」
ちょっとよく分からない。僕はキリスト教徒じゃないから。だけど……マテオ牧師は神の教えを広めるために、日本に来た訳じゃないんだな?
「神の正体って?」
「それは……神を恐れる心。神を信じる人々の恐れが、偽りの神を生み出した。それが『F』……『フォビア』? 恐怖症と呼ばれている……」
「フォビアを知っているんですか?」
「……はい。アメリカから来たネウロシエンシア……? 神経科学の……専門家と名乗る人が教えてくれたと」
通訳の人は聞き慣れない単語が出て来て、困惑していた。だけど、僕とマテオ牧師は「フォビア」を知っている。
「あなたも恐怖症でしょう……と、マテオ牧師は聞いています」
僕は返事をする代わりに、無言で大きく一度頷いた。
マテオ牧師は微笑んで、握手を求めて来る。僕は知らない人と握手するのは少し抵抗があったけれど、こういうのは文化の違いだろうから応じた。
日焼けした力強い大きな手から、マテオ牧師の温かさが伝わって来る。
「Gracias, amigo extranjero」
「ありがとう、外国のお友達……と言っています」
こういう時って、どう言えば良いんだろう? こちらこそありがとう? 何のお礼かもよく分かんないしな……。ときじくの会の連中を止めた事について、改めてお礼を言われてるんだろうか? それとも他の事?
マテオ牧師は迷っている僕に、更に続けて言う。
「マテオ牧師は今まで信じていた神を失った。これからは一人の人間として、本当の神に祈る日々を送る……。パストール、牧師でもなくなる!?」
また通訳の人とマテオ牧師は二人で、あれこれと話し合いを始めた。何を言っているのか分からないけれど、雰囲気から察するに、どうして牧師を辞めてしまうのかって事みたいだ。ちょくちょく蚊帳の外に置かれるのは、何とも言えない気分……。
話し合いを終えた二人は、僕に向き直る。
「Adios amigo y buena suerte」
「さようなら、お友達。幸運あれ……だそうです」
「ありがとうございます。そちらこそ、お元気で」
「Gracias, Cuídate mucho」
マテオ牧師は明るい笑顔を僕に向けて手を振った。
これでお別れなのかと思って、僕も小さく手を振り返す。ところが、今度は通訳の人がマテオ牧師に呼びかけて、自分の言葉で僕に語り始めた。
「私はときじくの会の一員でした。海外出張でエクアドルに行き、マテオ牧師と出会った時、運命を感じました。この人こそが世界を変えてくれる人なんじゃないかと。でも、今日のマテオ牧師を見て、目が覚めました。ときじくの会からは脱会します。これからは権威に頼らず、一人の信徒として生きようと思います」
「そうですか……。あなたもお元気で」
他に言う言葉が見付からない。どうして通訳の人まで、僕に今後の事を語る必要があったんだ……?
通訳の人は僕に深く礼をして、マテオ牧師と去って行った。
そう言えば、カラスの大群がいつの間にかいなくなっている。あれも神の奇跡だったんだろうか? 何かあったらカラスの群がマテオ牧師を助けた? 結局、何も分からないままだ。
二人を見送った後で、僕は自分の事を公安の関係者だと名乗っていた事に気付く。ああ、だから通訳の人は僕に今後の事を語ったのかな?
何はともあれ、これでこの件は片付いた訳だ。僕は大きな溜息を吐いて、東京の青い空を見上げた。
思わぬトラブルがあった割に、心は穏やかで晴れやかだった。きっと、いい人と会えたからだろう。
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