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 三月一日。今日付で雨田さんがC機関に行く事になった。

 その事実を知らされたのは、前日の事だ。雨田さんはバイオレンティスト暗殺の功績を評価されて、C機関に誘われたらしい。


 朝八時に雨田さんはC機関の人が運転する車に乗って引っ越す。だけど、雨田さんを見送る人は少なかった。久遠ビルディングの玄関前には、僕と副所長の上澤さんの二人だけ。交友関係が広くはない事は何となく分かっていたけれど、寂しくないんだろうか?

 そう思っていると、上澤さんとの話を終えた雨田さんが僕に視線を向けて言う。


「向日、どうして来たんだ?」


 どうしてって……そんな言い方はないだろうと心の中で思いながら、僕は答える。


「いえ、その……雨田さんにはお世話になりましたし、お別れの挨拶ぐらいはしておいた方が良いんじゃないかと思いまして」

「世話をした覚えは無いんだがな。俺はドライな方が気楽で良い」

「そうですか……。でも……お元気で」

「また出戻るかも知れんぞ」


 少し間が空く。

 雨田さんは真剣な表情で僕に言った。


「俺がフォビアを使いこなせる様になったのは、向日のお蔭でもある。全部が全部って訳じゃないが、多かれ少なかれ影響があったのは事実だ」

「……何かしましたっけ?」

「そういう意味じゃない。心理的影響って奴だ」


 心理的影響……と言われても、精神的な支えになった覚えもない。

 分かっていない僕を見て、雨田さんは照れ臭そうに頭を掻く。


「他人には分からん事さ。俺が勝手に思ってるだけだ。じゃあな、また会う事もあるだろう」


 雨田さんはそう言って、車に乗って行ってしまった。その場には、僕と上澤さんの二人だけになる。

 上澤さんは僕に一度視線を送って、小さな笑みを浮かべる。


「あの雨田が礼を言うとはね」

「……お礼だったんですか?」

「いや、礼とは少し違うか……。とにかく珍しい物を見せてもらったよ」


 何がおかしいのか、上澤さんは笑みを浮かべたまま、ビルの中に戻って行った。

 一人で外に突っ立っている訳にもいかないので、僕も上澤さんの後を追う様にしてビルの中に入る。

 いつどこで会えるかは分かりませんけど……また会いましょう、雨田さん。



 その日の午後、今度は開道くんがC機関から戻って来た。僕は事前に何も知らされていなかったから、昼休みに開道くんとエレベーターでばったり会って、びっくりしてしまった。


「開道くん!?」

「あ、向日さん……」


 開道くんはぺこりと頭を下げて、気まずそうに俯く。


「どうしたんだい?」

「その……C機関をやめました」

「どうして? 何かあったのかい?」


 僕は心配になって尋ねた。人間関係のトラブルとか、訓練に付いて行けなくなったとか、フォビアが制御できなくなったとか、理由は色々考えられる。

 開道くんは力なく笑って言う。


「怖くなったんです……。バイオレンティストって奴を見て……」

「詳しく聞かせてくれないか?」


 僕が話を促すと、開道くんは小さく頷いた。


「……部屋まで来てください」


 僕と開道くんは七階の710号室に向かう。ここが開道くんの部屋。C機関に転向する前から変わっていない。


「どうぞ」

「失礼します」


 開道くんの部屋はまだ物が何も無かった。


「家具とかは、後から来るの?」

「そうです」

「今日帰って来たばかりなのか」

「はい」


 僕と開道くんはリビングの床に座って話を始める。


「それで……バイオレンティストの話だけど」

「はい。俺、拳さんと一緒にバイオレンティストと戦いに行ったんです」

「拳さんって、C機関の?」

「あ、はい。何とかフォビア……拳恐怖症の人です」


 あの拳さんと一緒に、バイオレンティストとの戦いに参加していたのか……。


「俺は戦いに慣れてないから、最初は見てるだけで良いって言われて。拳さんは同じフォビアなら自分の方が強いって、自信満々に言ってたんですけど、違って……」


 開道くんの声は震えていた。バイオレンティストの「暴力」を目の前で見てしまったんだろう。


「拳さん、見えない力でぶっ飛ばされたんです。顔面が潰れて。動けない拳さんを、バイオレンティストが素手で殴り続けて……」


 開道くんはとうとう涙を流し出す。


「俺は隠れて見ているだけで……全然覚悟ができていなかったんです……。だから、もうC機関にはいられないって思って……」

「しょうがないよ。僕もバイオレンティストとは二度と戦いたくない」

「向日さんも……?」

「二月十四日にバイオレンティスト暗殺作戦があったんだ。僕は雨田さんとか公安の人達と一緒に、バイオレンティストと戦った。戦ったって言うか、正確には囮になっただけなんだけど」

「それで……どうなったんですか?」


 開道くんの涙が止まった。過去の恐怖体験よりも、僕の話の方が気になる様だ。


「バイオレンティストは死んだよ。雨田さんの雷で」

「そうだったんですか……。向日さんはスゴいですね」

「いや、僕のフォビアもバイオレンティストには効かなかった。僕一人じゃ絶対に勝てない相手だった。雨田さんがいてくれて良かったよ、本当に。僕も死んでいたかも知れない」


 助かった今だから言える事だけど、バイオレンティストは恐ろし過ぎた。フォビアの究極の形……。いや、この話を今ここでする必要は無いだろう。あんな奴を目指されても困る。

 僕は開道くんを慰める意味で言った。


「怖いと思うのは君の感覚が正常な証拠だよ。僕だって怖かった。C機関から戻って来た事も、気にする必要はないよ。雨田さんや刻さんも、C機関から来た人なんだ。あっちに行ったり、逆にこっちに来たりは、よくある事なんだと思うよ」

「……そうなんですか?」

「ああ、そうだよ。そんな事で君を責める人なんかいないって。何かあったら僕に言ってくれ」

「はい。ありがとうございます……」

「いつでも帰って来て良いって、言っただろ?」


 開道くんは俯き加減で小さく頷く。少し元気になったみたいだ。

 正直、僕は開道くんが戻って来てくれて安心している。開道くんはC機関で戦うには若過ぎたんだ。C機関に行くのは、もっと力を付けてからで良いだろう。

 どうしても行く気になれなかったら、行かなくてもいい。フォビアをどうするかは自分で決める事だ。誰かのためにと思い詰める必要はないさ。

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