フォビアの可能性

1

 午前十時、僕は上澤さんの話を聞きに、三階の副所長室に向かう。まずはノック。


「上澤さん、向日です」

「どうぞ、入りたまえ」

「失礼します」

「よく来た。かけたまえ」


 許可を得て入室すると、上澤さんは予め用意していた座り心地の良さそうな椅子を指して着席を促す。ここには普段こんな椅子を置いていなかったはずだ。僕のためにわざわざ用意した物なんだろう。ありがたい半面、大袈裟だなとも思う。今日は立ち話じゃ終わらないって事なのかな?

 僕が椅子に浅く座ると、上澤さんは小さく笑った。


「そう緊張しなくて良い。楽な姿勢で聞いてくれ」


 そんな事を言われても、まさか偉そうに背もたれに体を預けて、反り返る訳にもいかない。少し深く座り直すぐらいにしておく。

 それから少しの沈黙。上澤さんは何から話したら良いのか考えている様子だった。


「話というのは……フォビアについてだ。まず、フォビアの種類について」

「クラスAとかクラスBとかの事ですか?」

「そうじゃない。PPA分類と言うのがあってだな……。C機関ではよく使われる分類なんだが、フォビアがを主眼に置いた物だ。この分類では、フォビアは三つのカテゴリーに分けられる。一つは『Psycho』……精神に作用する物。一つは『Physical』……物理に作用する物。最後の一つは『Abstract』……観念に作用する物。この三つだ」


 口で説明されるだけじゃ、ちょっとよく分からない。

 僕が余り理解していないのを察したのか、上澤さんは席を立って、部屋の隅にあるホワイトボードを引っ張って来た。

 ホワイトボードにはデフォルメされた動物の顔のイラストが、一面にびっしりと描かれてある。僕はぎょっとして尋ねた。


「えっ、それは一体……?」

「気にしないでくれ」


 上澤さんはホワイトボード消しで、さっさと絵を消し始める。

 暇潰しの落書き? お絵描きの練習でもしてたのかな?


「そんな事より、三つの分類の話だ。一つは精神に働き、一つは物理に働き、最後の一つは観念に働く……分かるか?」


 そう言いながら、上澤さんはハート型と、立方体と、吹き出しか雲みたいな形の物を描く。それぞれ「精神」と「物理」と「観念」を表しているんだろう。そのぐらいは読み取れる。


「多くのフォビアは精神に作用する。最も基本的なフォビアの性質が恐怖の伝染だ。しかし、中には実際に物理的な現象を起こす物もある。平家くんが好例だな。火への恐怖が現実の火災になる」

「僕のフォビアも?」

「そうだな。君の無力化のフォビアも現実に起こった現象を止める効果がある。それはつまり、現実の物理に干渉しているという事だ」


 これが重要な話なんだろうか? この話を今のタイミングで僕に聞かせる事に何の意味があるんだろう?

 一人で疑問に思う僕に、上澤さんは解説を続ける。


「基本的にはフォビアは精神に作用する物だが、特に強いイメージと、精神的な――サイコパワーとでも言えば良いのかな? 強いイメージとサイコパワーが、物理的な作用を引き起こす事もある。だが、そのどちらにも当てはまらない特殊なフォビアも存在する。それが観念的な物に作用するフォビアだ」

「観念?」

「そう、観念。実体を持たない物、概念的な何か」

「例えば……どんな?」

「初堂だ。彼女のフォビアは具体的な現象を起こす訳ではない。親しい男性、好意を持った男性を不幸にする。その性質のために、精神に作用するとも、物理に作用するとも言い難い」

「ああ、成程……」


 確かに、初堂さんのフォビアは特殊だ。男性恐怖症ともまた違う。「好意を持った男性」という個人的な観念が対象だからか。


「C機関の天衣、元解放運動の窯中も同類のフォビアだな」

「天衣さんも?」

「天衣は『現実の認識を狂わせて破滅させる』フォビアだ。までが彼女のフォビアの効果だよ」

「そうだったんですか……」


 これが重要な話なんだろうか? 重要と言えば重要なんだろうけど、知ったからってどうなんだって感じもする。

 上澤さんは疑問に思う僕を見詰めて、まじめな顔で聞いて来た。


「では、バイオレンティストはどうだろう?」

「あれは……物理に干渉するフォビアじゃないんですか?」


 見えない力で人間を吹っ飛ばしたり、窓を割ったりしていた。所謂サイコキネシスって奴だろう。


「元解放運動の友地の言葉を忘れたか? バイオレンティストのフォビアは『心理を超えて』『物理に干渉する以上の』事が可能なのだ」

「バイオレンティストの超能力はフォビアだったんですか?」

「彼の過去について、いくらか調べさせてもらったよ。彼は誰よりも暴力を恐れるが故に、暴力を崇拝し、自ら暴力を手にするに至ったのだ。それをフォビアを言わずして何と言う?」


 そうなのか……? それはともかく、確かにバイオレンティストの超能力は普通じゃなかった。自分より弱い者の攻撃は効かないって、そんな自分ルールを相手にも強制するなんて。いや、相手だけじゃない。銃弾さえも奴には効かなかった。もしかして物理法則を歪めて世界を変質させる程の力だったのか?


「だが、あれこそがフォビアの究極の形なのだ。心理を超え、物理を超えて、観念そのものを具現化する。自らをも固く律する、信仰にも似た強固な信念が、それを可能にする……」


 上澤さんはホワイトボードの図に矢印を描き加える。……精神から物理へ、物理から観念へと。

 フォビアは進化するって言うのか?そこまで言うからには相応の根拠があるんだろうと思って、僕は尋ねる。


「そういう研究データでもあるんですか?」

「ある。私の曽祖父が遺した『上澤報告書』に記されている。このウエフジ研究所の『ウエ』は、私の曽祖父『上澤うえざわ大生おおる』に因んで付けられた」

「はぁ……そうだったんですか」


 僕は少し嫌な予感がして来た。

 上澤さんは何のために、こんな話を僕に教えるんだ? 何か目的があっての事なんじゃないか?

 そう訝しむ僕に、上澤さんは言った。


「三月……春になったら、君を所長に会わせようと思う。その時には、もっと深い話ができる様にしておこう。C機関の事、F機関の事……」

「はい」

「今日は以上だ。フォビアの事、少し頭に入れておいてくれ」

「はい」


 結局何が重要な話だったのかは、よく分からなかった。取り敢えず今回の話で分かった事と言えば、フォビアは進化するって事と、ウエフジ研究所の「ウエ」は上澤の「上」って事だけだ。


 副所長室を後にした僕は、以前と変わらない時間を過ごす。勉強して、運動して、ちょっと遊んで。

 くよくよと死んだ人の事を引き擦ってたってしょうがない。僕が殺した訳じゃないんだから。そんな開き直った気持ちになっていた。

 上澤さんの話を聞いた事で、いくらか気が紛れたのかも知れない。所長に会わせるって話もあったけれど、そう深刻に考える事もないだろう。僕は先の事なんかすっかり忘れて、一日一日その日だけを考えて過ごそうと決めた。

 もっと無責任に。受け身でいたって良い。本当にそれで良いのかという疑問は消えないけれど、全てを背負い込むには僕の心は小さ過ぎる。

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