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 だけど、膠着状態は長くは続かなかった。バイオレンティストは僕に向かって一歩踏み出す。僕は反射的に一歩下がった。……それが失策だった。こいつに弱みを見せてはいけなかった。バイオレンティストは二歩、三歩と足を進める。

 このまま距離を詰められるのはまずい……。僕は堪らず後退する。バイオレンティストの前進に合わせて、遅過ぎず、早過ぎず。背後を見せて逃げると、一気に追い詰められそうだ。

 バイオレンティストは悠々とした足取りで迫って来る。ああっ、階段前を塞がれてしまった。もう下に逃げるのは無理だ。上の階にしか逃げ道はない。

 バイオレンティストは勝利を確信したのか、余裕の笑みを浮かべて語り始めた。


「少し身の上話をしてやろう。俺の家族の話だ。俺の親父は偉大だった。大した稼ぎもない、しがない会社員だった親父は、躾と言って事ある毎に俺を殴った。俺は何があっても大人しく殴られて、親父の言う事を聞くしかなかった。逃げたり反抗したりすれば、もっと酷く殴られたからだ」


 こいつ……何を言い出すんだ? 突然の語りに僕は困惑した。そんな僕の反応に気を好くしたのか、バイオレンティストは得意げに語りを続ける。


「お袋も親父には劣るが偉大だった。お袋も事ある毎に親父に殴られていた。無力で弱いお袋だったが、そんなお袋でも俺を殴る事だけはできた。躾なのか、それとも親父に殴られた腹いせか、そんな事はどうでもいい。俺は学習した。弱い事はそれだけで罪なんだ。弱者は強者に蹂躙されるために存在する」


 可哀そうだとか、同情する気は起こらなかった。それよりも今は自分の身を守る事が最優先だった。僕はバイオレンティストと付かず離れずの距離を保ちながら、三階の廊下に出る。


「最も偉大だったのは、親父の上司だ。夜中にまで電話をかけて来て、親父はいつもペコペコしていた。顔も見えない相手にな。親父でさえ自分より力のある者には服従するしかなかったという事実! そんな親父の上司も、きっと更に上の上司や社長には逆らえず、その怒りを親父にぶつけていたんだろう」


 三階より上への階段は……見当たらない。廊下の端が近付く。


「それでも俺は親に感謝してる。世の中は力こそ正義なんだ。力さえあれば、どんなに理不尽な事でも聞かせられる。最も強い力とは何だ? それは暴力だ。殴って黙らせれば、どんな問題でも立ちどころに解決する。どんなに権力があろうが、知恵が働こうが関係ねえ。単純明快、手っ取り早くて良いだろ?」


 同意を求められても困る。返事をする余裕なんか無い。

 追い詰められた僕は窓を見た。外では小雨が降っている。窓の下には洋風の青い石瓦を敷いた屋根がある。

 ……もうここしかない! 僕は窓を蹴破って、屋根の上に転がり出た。雨で濡れたゆるやかな傾斜の石屋根の上は滑るけれど、どうにか転がり落ちずに踏み止まる。

 はぁ、危ない危ない。地上まで十m以上は優にありそうだ。落っこちたら無事じゃ済まない。

 僕を追って、バイオレンティストも屋根の上に出て来た。ああ、でも……こっちは裏側だ。この状況で雨田さん達が待っている屋敷の正面まで移動するのは難しい。

 俄かに雨が強くなり、木の枝からバラバラと大粒の水滴が落ちて来る。

 僕はこれ以上逃げるのを諦めた。ここで何とかするしかない……。


 僕が立ち止まると、バイオレンティストも立ち止まる。……全く本当に熊との追いかけっこだな。熊という表現がこの上なくしっくり来たので、極度の緊張にもかかわらず僕は失笑してしまった。


「何笑ってんだ? 弱者の分際で。俺の前では息をする事も許さねえ」


 バイオレンティストが凄んで、僕は恐怖したけれど、もう心の中は決まっている。僕は懐からスターターピストルを取り出して、バイオレンティストに向ける。自分でも不思議な事に、手の震えは一切ない。


「拳銃か? ガキが大層な物を持ってんじゃねえか! おら、撃って来いよ。ほれ、試してみろ」


 どうやら本物の銃との区別は付いてないみたいだ。それでもバイオレンティストは強気に僕を挑発する。威勢は良いけれど、本当は怖いんじゃないだろうか? 恐怖の裏返し。何となく、そんな気がした。


「言ったよな? 武器を持つのは弱者だ! 俺には効かねえ!」


 そうバイオレンティストが言い切ったと同時に、僕はスターターピストルをぐっと握り締めて撃った。パーンと派手な銃声が響き渡って木霊する。

 数秒の沈黙……。当然バイオレンティストは無傷だ。


「ヘッ、脅かしやがって」


 バイオレンティストは勝利を確信して屋根の上を歩き始める。

 ……後は仲間を信じるしかない。祈る様な気持ちで待つ。


 ――空が閃いた。木の枝に覆われた僕達の頭上、遥か高くで。

 それを認識したとほぼ同時に、僕は落雷の瞬間を目撃する。白い稲妻が細い木の枝を中継して、一瞬でバイオレンティストの頭に……。

 閃光と衝撃で、僕は堪らず尻餅をつく。バイオレンティストの全身から、白い煙が立ち上る。一見しただけでは、ダメージがあるか分からない。格下の攻撃を無効にする超能力に、雷という自然の力が効くのか効かないのか……。

 もう一撃……もう一撃、加えなければ。僕は再度スターターピストルをバイオレンティストに向けた。バイオレンティストは反応しない。構わずトリガーを引く。

 パーンと音はしたけれど……心なしか火薬の爆発音が小さく聞こえる。火薬が湿ってしまった? それとも落雷で僕の耳がいかれたのか?

 そんな疑問を遮る様に、再びの落雷――。


 バイオレンティストの巨体が揺らぐ……。屋根の斜面に沿って倒れ、そのままズルズルと滑って端から……落ちた。

 ドシャッと音がする。僕は屋根から下を覗き込んだ。バイオレンティストは地面に俯せに倒れて、ピクリとも動かない。

 終わった……のか? 奴は生きている? それとも死んだのか?


 とにかく僕は濡れた屋根の上を慎重に慎重に、這う様に歩いて、屋内に引き返す。時々足を滑らせて、滑り落ちそうになりながらも。

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