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吉谷さんが箱を落としたのは、寧ろ僕のせいじゃないだろうか? 僕が吉谷さんのお姉さんの話を始めたから、精神的に動揺していた可能性がある。窯中さんの悪化のフォビアより、そっちの影響の方が大きいと僕は思う。
そもそも「事態を更に悪化させる」フォビアなんだから、その大元になる「悪い事を起こす」事は無いはずだ。これまで起こった些細な悪い事は、全部偶然だという事を証明しよう。
僕は窯中さんに問いかける。
「せっかくですから、何か買っていきませんか?」
「良いんですか?」
「好きな物を買うぐらい良いでしょう。お金はありますか?」
「はい」
窯中さんは余り嬉しそうじゃない顔で、売店の品物を見て回る。
……こうやって見て回ってるって事は、嫌々やってるんでもないだろう。嫌なら断れば良いだけの話だ。もしかしたら喜びの感情が顔に表れ難い人なのかも知れない。それを悪いと言うつもりはないけれど、喜びを抑えなければいけない人生を送って来たのなら可哀そうだ。
十数分かけて、窯中さんは日用品をいくつか購入した。
売店を後にした僕と窯中さんは、次に食堂へと移動する。
「食堂は……知ってますよね?」
「はい。年末年始は利用してましたから」
「それなら説明は要りませんね」
「はい」
特に説明する事がないから、すぐに出て行こうと思っていたけれど、一つ疑問が浮かんだ。
「窯中さん、年末年始はフォビアは大丈夫だったんですか?」
「はい。極力、他人と接触しない様に心がけていたので」
「そうですか……」
それでフォビアを抑えられるなら、やっぱり心理的な影響が大きいんだろう。そもそもフォビア自体が心理的な物だしな。
その後、僕と窯中さんは他の一階の施設を見て回り、そして二階から三階、四階、その上の寮から屋上まで移動した。
一通りの案内を終えて、僕は窯中さんに問いかける。
「どうでしたか? 何も起こらなかったでしょう」
「え……?」
窯中さんは驚いた顔で僕を見た。
そのリアクションは何なんだ? 何か変な事でも言ってしまったか?
「えっ、何かありましたか?」
「い、いえ、何でもないです」
何でもないなら、そんなリアクションをしないで欲しいよ。ビックリした。
僕は不満を心の中に収めて、できるだけ穏やかに言った。
「隠さずに言ってください」
「大した事じゃないんです! 多分、気のせいですから」
窯中さんは必死に否定する。
これは良くないな。本当は気のせいだとは思ってないけど、言っても信じてもらえないから、抑え込もうとしている。僕の否定の仕方が悪かった。それ以前に否定するべきじゃなかったのかも知れない。
僕はメンタルケアの専門家じゃないから、正しい対処なんか分からない。本当に回数をこなせば、窯中さんの精神状態は改善するんだろうか? このままだと些細なトラブルを見付けては、あれもこれも自分のせいだと気に病んでしまう。
だけど、今の僕には状況を変える妙案が無い……。
その日はそれで別れて終わった。どうにかしてあげたかったんだけれど、何も手立てが無かった。
翌日、カウンセリングで僕の心を読んだ日富さんは、窯中さんの事に触れる。
「窯中さんもですが、向日くんも気にし過ぎですね」
「えぇ……」
「メンタルの問題は究極的には、自分自身で何とかする事です。他人が解決できる事ではありません。仕事は仕事と割り切って、深入りは避けてください。後は本人に任せるべきです」
それは冷淡じゃないかと僕は抗議しようとした。
「でも……」
「何のために私がいると思っているんですか?」
「それは……確かにそうなんですけど」
「窯中さんの事は私に任せてください。その内……そう遠くない内に、元気になるでしょう」
「予言ですか?」
「経験に基づく予測と言って欲しいですね」
餅は餅屋と言う様に、メンタルの事はカウンセラーに任せた方が良いんだろう。
僕は日富さんを信頼して、この件については深く考えない事にした。
日富さんは遠くない内にと言ってくれたけれど、だからって数日で劇的に良くなるって訳でもないだろう。これからも窯中さんの訓練には付き合う事だし、少しずつ良くなって行くんだと信じて、気長に構えていよう。
窯中さんのフォビアにも何か使い道があれば良かったんだけどな。利用価値があると分かれば、フォビアの改善にも積極的になれるだろうし。でも、事態を悪化させるなんて扱い難い能力にポジティブな面を見出せるのか……。
なかなかままならないものだと、僕は大きな溜息を吐いた。
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