悪化のフォビア
1
時は流れ、一月の中頃。今日は解放運動の一員だった窯中さんと訓練をする日だ。
訓練と言っても、この日は研究所の中を案内するだけ。窯中さんのフォビアは無意識に発動するタイプだから、それがどんな形で表れるか、ちゃんと防止する事ができるのか確かめるために、人前に出てみるんだ。
地下二階の第四実験室で、僕は窯中さんと対面する。
「それじゃあ、行きましょう。頭に付ける奴は要りませんよ」
不安そうな顔をしている窯中さんに、僕は告げる。「頭に付ける奴」とは、脳波を抑えるヘッドギアの事だ。
窯中さんのフォビアはクラスAとクラスBの中間ぐらいにある。日常生活が困難な程ではないけれど、能力の暴走が始まると自力で止められない。ちょっとフォビアの扱いに慣れた人が、ちょうどこのくらいのレベルだ。
A+とかB-とか呼ばれるんだったかな? Aの方が悪いABC評価だから、普通とは逆だ。最終的にはDになるんだけどさ。
窯中さんは僕の言葉を聞いても、不安そうな顔は変わらなかった。気持ちは分かるんだけど、その不安を何とかするための訓練なんだから。渋ってもらっちゃ困る。
「大丈夫です。僕が付いていますから」
本当は僕もそこまで自信は無い。もし自分のフォビアが働かなかったらどうしようという不安が、どうしても拭えない。
でも、それこそが僕のフォビアを強くしていると、日富さんは言っていた。心の底から「絶対に大丈夫だ」と言い切れる様になったら、僕のフォビアは失われてしまうんだろう。フォビアとは何とも因果な能力だ。
窯中さんは晴れない表情で僕の後を付いて歩く。僕と窯中さんは最初に地下二階の第三実験室の横にある準備室に移動した。そこでは第三研究班の皆さんが、それぞれのパソコンに向かって黙々と何らかの作業をしている。研究データの打ち込みとか、解析とか、他の研究者とのメールのやり取りとか、論文の読み込みとか……とにかく色々だ。
「失礼します」
そう言って僕が入室すると、班長の花待さんが顔を上げた。
「おお、訓練中か……。ちょっと待ってくれよ。皆、作業は一時中断。バックアップを取っといてくれ」
窯中さんのフォビアは事態の悪化という事で、小事が大事になったりしないか警戒されている。僕のフォビアも完璧じゃないから、急に発動した能力を即座に抑える事は不可能だ。
その時、気の抜けた声が上がった。
「おわっ!? あああー……」
どうやら飲み物を零してしまったみたいだ。紙コップが床に落ちて、ばしゃりと液体が飛び散る。
花待さんが呆れた声で言う。
「
「大丈夫、大丈夫です。損害はありません」
「零れないコップを買って使えと。売店にあるんだから」
井橋さんは花待さんの小言を聞き流しながら、布巾を持って来て床を拭く。
僕は苦笑いしていたけれど、ふと隣を見ると窯中さんが青ざめて震えていた。
えっ、何事……? もしかしてフォビアが発動するのか? 僕は驚いて窯中さんの手を取り、自分のフォビアを意識する。
「どうしたんですか?」
「わ、私の……せい……」
「関係ないですよ。そんな
実際ただ普通にコップが倒れただけだ。パソコンがぶっ壊れたとか、データが消滅したとか、そういう事でもない。それなのに窯中さんは素直に落ち着いてくれない。
しょうがないから僕は繰り返す。
「大丈夫ですよ。何も起こらないでしょう?」
井橋さんは布巾を片付けて、再び席に戻って来る。他の研究員の人達も黙々と作業を続けている。何も起こっていない。
「ほら、平気ですって」
窯中さんはようやく納得して、落ち着いてくれた。
「……はい。済みませんでした」
それでもまだ恐れているのか、視線が左右に泳いでいる。そういう態度がフォビアを発動させるんだけどなぁ……。
まあ僕も偉そうに他人の事を言える立場じゃない。トラウマは一朝一夕で克服できる物じゃないんだ。
僕は窯中さんを連れて第三実験室を後にすると、エレベーターで一階に向かう。
エレベーターの中で僕は窯中さんに告げた。
「ちょっとしたアクシデントぐらい、いつでも起こるものなんです。だから何も気にする必要はないんですよ」
「……済みません」
「その、謝って欲しい訳じゃなくて……。もっと、こう、開き直るというか、図太くなってください」
「済みません」
こりゃダメだ。まあ、こういうのを繰り返して慣れて行くしかない。もしかしたら子供達よりも時間がかかるかも知れない。
長い年月をかけて染み付いた恐怖感に加えて、僕みたいな元敵の年下の男には頼れないって思いもあるんだろう。僕の事を信頼してくれてないのは、態度で分かる。
エレベーターから降りた僕達は、売店に向かった。
売店に入ると正月休みから復帰した吉谷さんが店番をしている。
「おお? 向日くん、その人は?」
「えー、窯中さんです。去年、新しく入った人」
「そうなんだー。向日くんも忙しいね。とっかえひっかえ」
「ええ、まあ。体が二つ欲しいぐらいですね」
色んな人の訓練に付き合わないといけないから大変だろうという意味で言われたと思っていたら、どうやら違ったみたいで、ヒューと口笛を吹かれてしまった。
「プレイボーイだねえ」
「そんなんじゃないですよ!」
「あっは! 分かってるよ。冗談、冗談」
慌てて否定する僕を吉谷さんは笑う。
……話題を変えよう。
「吉谷さんのお姉さんのアンナさん、大晦日にノリノリで歌ってましたよ。よく響くお声というか……お上手でした」
「ちょ、ちょ、身内の話はやめてよ」
「何か習い事とかされてたんですか? 学生の時に合唱部だったとか、歌手を目指していたとか?」
「その話はやめて。他の人にもしないでね」
えっ、何でだろう? 身内の話が恥ずかしいってのは分からなくもないけれど……そこまで嫌がるって、姉妹で仲が悪いのかな? まあ反抗する理由もないし、やめてと言うならやめておこう。
「さーて、在庫のチェックでもしようかなっと」
吉谷さんは気まずい空気をごまかすみたいに、カウンターの外に出て商品の整理を始めた。
僕は窯中さんに振り返って言う。
「ここが売店です。フォビアを制御できる様になったら寮に移って、ここで必要な物を買ったりする事になります」
「……知ってます」
「あぁ、ご存知でしたか? 誰から聞いたんです?」
「そのくらいは見れば分かるじゃないですか」
確かに。僕が説明するまでもなかったな。余計な解説はいらないか……。
そう思っていたら、ドサッと何かが倒れた音がする。
反射的に音のした方を見ると、吉谷さんが商品の入ったダンボール箱を落としてしまっていた。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫、大丈夫。中身は無事みたい」
僕が心配して声をかけると、吉谷さんは箱の無事を確認する。いや、商品じゃなくて吉谷さんの心配をしたんだけどな。
ふと横を見ると、また窯中さんが青ざめている……。
「大丈夫ですよ、大丈夫です」
「でも、やっぱり、私のせいじゃ……」
「そんな事はないですから。吉谷さんも『中身は無事』って言ったじゃないですか」
何かある度に否定しないといけないんだろうか? 正直ちょっと面倒臭く感じ始めている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます