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 僕は穂乃実ちゃんを抱えて、薄暗い廊下を歩きながら思う。ただ穂乃実ちゃんを送り届けるだけなのに、どうして初堂さんが付いて来るんだろう? 僕が穂乃実ちゃんに何か変な事をしないか心配なのかな? 小さな女の子をどうこうしようという気は全然ないんだけど、人の心は分からないからな……。

 穂乃実ちゃんは僕の腕の中で、僕の胸に寄りかかって目を閉じている。


「かわいいね」


 不意に初堂さんがささやいた。穂乃実ちゃんの事だろう。


「そうですね」


 僕は特に深く考えずに同意する。

 地下の穂乃実ちゃんの部屋の前で、僕は穂乃実ちゃんが持っているカードキーを使って入室した。玄関の側にあるスイッチを押して電灯を点けると、室内の様子が露わになる。片付いていると言うよりは、余り物が無くて殺風景な部屋だ。自由に買い物もできないから、しょうがないのかも知れない。

 僕は穂乃実ちゃんの履物を脱がせると、ゆっくりベッドに寝かせて、毛布と布団をかけた。深く眠っているのか、起きる気配はない。

 穂乃実ちゃんの安らかな寝顔を見届けて、僕は部屋から立ち去ろうとしたけれど、初堂さんはベッドの側で穂乃実ちゃんの寝顔をじっと見下ろしている。どうしたんだろうと思っていると、初堂さんは穂乃実ちゃんの頭を愛おしそうに撫で始めた。

 本当にどうしたんだろう……?


「初堂さん?」

「かわいいね……」

「そうですね」

「私にも……このくらいの子が……」


 もしかしてお子さんがいたとか、そういう話だろうか? どう反応したら良いのか分からない。


「電気、消しますよ」


 僕が呼びかけると、初堂さんは小さく頷いて穂乃実ちゃんから離れた。


 部屋から出た後、僕と初堂さんはしばらく無言で気まずかった。それからエレベーターに乗る辺りで、ようやく初堂さんが口を開く。


「私もあのくらいの子供が欲しかったなって思うの」

「そうですか……」


 そんな事を言われても、どう返したら良いんだろうか?

 生返事しかできない僕に、初堂さんは続ける。


「こんなフォビア、無ければ良かったのに」


 やっぱり初堂さんは自分のフォビアを嫌っている。僕だって出会った女の人を不幸にするフォビアとか欲しいとは思わないし、活用する方法があったとしても、使いたいとは思わないだろうなぁ……。


 エレベーターが六階で止まって、僕と初堂さんは一緒に降りる。


「向日くん、今日はありがとうね」


 忘年会に参加できた事を言っているのかなと思ったら、どうやら違うみたいで。


「フォビアの事を話してくれて」

「ああ、いえ……」


 どうしてお礼を言われるんだろう? 僕には分からない。

 困惑している僕に、初堂さんは優しい笑みをたたえて言う。


「自分の事を話すって事は、分かってもらいたいと思ってるって事。仲良くなりたいって思ってるって事」

「そう……なんでしょうか?」

「一人で抱えるには重た過ぎる心の荷物を、誰かに一緒に持ってもらいたいと思うのは自然な事よ。その相手に私を選んでくれたから……ありがとう」

「いえ、そんな……」


 そうなんだろうか? そうなのかも知れない。ちょっと恥ずかしい気持ちになる。

 そのまま無言で僕と初堂さんは廊下を歩いた。

 別れ際に初堂さんは僕に言う。


「じゃあ……今年もよろしくお願いします」

「あ、はい。こちらこそ、よろしくお願いします」


 忘れてたけど、もう新年だったな。僕は初堂さんを見送って、自分の部屋に入る。

 何だか疲れてしまった。今年一年……いや、去年一年、色々な事があり過ぎた。

 アキラが死んで、中学校を卒業して、高校に入学して、不登校になって、火事に巻き込まれて、ウエフジ研究所に連れて行かれて、フォビアだと言われて、就職して、ここの人達と知り合って、解放運動とか監視委員会とかカルトとか現れて、転校生と再会して。多くの人と出会って、多くの場所に行って、多くの人が死んで……怒涛どとうの様な激動の一年だった。

 来年は……いや、今年は穏やかな良い年になって欲しい。

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