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 五分ぐらい経って、窯中さんは泣き止んだ後、僕に謝った。


「向日さん……ごめんなさい。あなたは悪くないです」


 果たして本当にそうだろうか? 窯中さんは本気で僕は悪くないと思ってくれているんだろうか? 社会的な正義や道理を基準にして、「悪くない」という事にして、僕を恨まない様にしてくれているだけじゃないのか? 個人的な恨みの感情の前には建前なんか無意味なのに。

 ……つまらない妄想はやめよう。僕は無言で頷いて、了解した事にする。


「それじゃあ、僕はこれで……」


 僕は静かにロビーから離れる。

 沈んだ気分になってしまった。勉強の気分転換のつもりで出歩いてたのに、また気分転換が必要だ。しょうがない、勉強を再開しよう……。



 自分の部屋に戻ろうと廊下を歩いていると、部屋のドアの前で穂乃実ちゃんが座り込んでいた。壁に背中を預けて、両手でノートや本を抱えている。


「どうしたの、穂乃実ちゃん」


 ぎょっとして呼びかけると、穂乃実ちゃんは笑顔を見せる。


「いっしょにお勉強しようと……」

「ああ、留守にしてて悪かったね。取り敢えず上がって」

「おじゃまします」


 穂乃実ちゃんは立ち上がってお尻をはたくと、遠慮がちに部屋に上がった。

 まだ慣れない感じなのかな? 以前から勉強しに僕の部屋に上がる事は何度もあったはずだけれど。余り無遠慮になられるのも、それはそれで困るから、このくらいの距離感がちょうど良いのかも知れない。


 僕と穂乃実ちゃんは机の上に勉強道具を広げて、黙々と勉強する。聞こえるのはお互いの息遣い、ペンを走らせる音、消しゴムをかける音、エアコンの音、木枯らしが吹き荒れる音。

 穂乃実ちゃんの溜息が増えて、時々僕に視線を送る。これは分からない所があって僕に質問したい時に、タイミングを計っているんだ。僕の勉強の邪魔をしたら悪いと思っているのか、穂乃実ちゃんから声をかけて来る事は余りない。そこまで気を遣わなくても良いのに。

 こういう時は僕から声をかける。


「どう? 勉強は進んでる?」

「あの、ここがわからなくて」

「どれどれ、『図形の面積を求めよ』か……。成程ね」


 穂乃実ちゃんは勉強ができない訳じゃないけれど、ちょっと応用が利かなくて要領が悪いところがある。中学・高校レベルになると苦労しそうだから、今の内に改善しておきたい。成長すれば自然に順応するかも知れないけれど、こうすればできるっていう感覚を掴む事は重要だ。


 勉強中の小休憩の時間に、穂乃実ちゃんは僕に質問して来た。


「マモルさんは……どうしてお家に帰らなかったんですか?」

「まだ監視委員会の連中が活動をやめた訳じゃないから、家に帰ると家族を巻き込んでしまいそうでね」


 それが無かったら帰ってたんだけど。


「さみしくないんですか?」

「寂しくない事もないけど、まあ……僕も好い年だから」

「オトナなんですね」

「そうでもないよ。週に一度は家に電話して声を聞いてるし」


 確かに僕は長らく父さんや母さんと会っていないし、ずっと顔を見ていなくても平気だけれど、大人かって言われると違うと思う。連絡が付かないと心配するし、声を聞けばホッとする。完全に親離れできている訳じゃない。

 寧ろ、穂乃実ちゃんの方がよく耐えている。まだまだ家族と一緒に暮らしていたかっただろうに、もう会いたくても会えないんだから。

 僕は穂乃実ちゃんを大事にしたいと思う。好きとか嫌いって話じゃなくて……言い方は良くないかも知れないけれど、可哀そうだと感じているから。守らないといけないと思っているから。


 それから僕と穂乃実ちゃんは夕方までずっと勉強していた。お互いに一人でやるより二人の方が気合が入って捗るみたいだ。

 もっとも僕の方は勉強を見てくれる人がいないんだけど……。模擬テストをやっていると、時々これどうやって解くんだろうってレベルの難問にぶち当たってしまう。基礎の応用の応用みたいな、素直に教科書を読んでるだけじゃ絶対に解けない問題。類似の問題を何度も解いて、解き方を覚えるしかない奴。

 僕も教えを乞う人が欲しいけど、誰か適任者がいるかな? 研究員の人達は全員高学歴だから、高校レベルの問題が分からないって事はないだろうけど、気安く頼める人がいないからなぁ……。休暇明けに小鹿野さんにでも聞いてみよう。

 幾草は……余り勉強が得意そうに見えない。僕の所に来る時は遊び目的だし、夏休みの課題もそこまで進んでなかったみたいだし。でも、もしかしたら実は勉強ができるタイプで、遊びと勉強をきっちり分けているだけなのかも知れない。年も僕より一つ上な訳だから、聞くだけ聞いてみよう。

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