裁きの時
1
笹野さんは予約していたホテルに向かって、僕は病院の個室で一人になった。これから大事件が起きるかも知れないのに、一人だけってのはちょっと心細い。でも一緒にいてくれと言うのも変だ。小さい子供じゃないんだから。
そして……深夜十一時、ついに例の時が来た。僕は眠らずに、ベッド脇のテレビを見ながら時間を潰していた。
笹野さんが予想していた通り、病院内で停電が発生する。さっきまで見ていたテレビだけじゃなくて、廊下の電気まで完全に消えたのを確認した僕は、病室の窓から外を見た。街も真っ暗だ。
でも、すぐに病院内の予備電源が起動した。それなりに大きい病院だから、その程度の備えは当然ある。
廊下で誰かの話し声。看護師さん達が各部屋を見て回っているんだろう。
これが解放運動――じゃなくて、全教一崇教のやろうとしていた事なんだろうか? 停電で迷惑を被る人は多いだろうけど、これが天罰と言えるかどうか……。
僕がそう思っていると、院内で野犬の遠吠えの様な声が聞こえた。
冷静になろう。こんな所に野犬なんか現れる訳がない。誰だ? 大声で誰かを呼んでいるのか? ナースコールがあるだろう……って、そうじゃない! まさかブラックハウンド!? 停電の暗闇に紛れて、ブラックハウンドのフォビアに人を襲わせる作戦なのか!?
だけど、こんな偶然ってあるんだろうか? ブラックハウンドのフォビアにも距離や範囲の制限があるはずだ。数十m……広くても数百mぐらいだろう。つまり、ブラックハウンドは近くにいる。
僕は病衣から着替えて病室の外に飛び出し、犬の鳴き声の元を探る。ウォオーンと響く遠吠えだけじゃなくて、ガルルルという唸り声も聞こえる。
寝静まっている人達を皆殺しにしようって言うんだろうか? 何て恐ろしい事を考えるんだ!
僕は病院の暗さにも目が慣れて、少しずつ辺りが見える様になって来る。犬の様な黒い影が、遠くの廊下を横切った。黒い猟犬。
僕のフォビアで消す事ができるはずだけれど、僕は自分のフォビアの範囲がどの程度か分からない。PERだったかな? サイコ何とかって言う、フォビアの有効半径。精神状態によって変動するから当てにならないけど、僕の場合は高めに見積もっても十数mが限界。病院全体を守るには頼りない。
やっぱり本体を見付けて封じるしかない。でも、どこにいるんだろう? 心が焦るばかりで、まともに思考が働かない。
その時、携帯電話が鳴った。笹野さんからだ。
「向日くん、大丈夫か?」
「僕は大丈夫ですけど、大変です! 病院の中にブラックハウンドが!」
「落ち着いて聞いてくれ。実は病院の中だけじゃないんだ。東京23区のほとんどにブラックハウンドのフォビアが出現している!」
「嘘でしょう!?」
「信じられないかも知れないが、本当なんだ。恐らくブラックハウンドは東京の中心――千代田区内にいる」
ブラックハウンドのフォビアはkm単位で働くって事なのか? とても信じられないけれど、今は疑ってる場合じゃない。
「笹野さん、今どこですか? 僕のフォビアなら奴を止められると思います」
「分かった。すぐに迎えに行く」
病院の中も気になるけど、僕一人が残っていても全員を助ける事はできない。僕は犬の唸り声が聞こえる院内を出て、病院の正面で笹野さんの車を待った。
徐々に霧が立ち込めて、数m先も見えなくなる。これは夜霧か、それとも霧隠れのフォビアか……。多分だけど後者だろう。偶然のはずがない。
街のあちこちで犬の遠吠えが聞こえる。時々人の悲鳴も。パニック物のホラー映画みたいだ。僕にもっと力があれば……。そう思わずにはいられない。
焦りの余り、冷や汗が流れる。どうにかしたいけど、どうにもできない。まるで大災害。僕は無力だ。
でも、諦めないぞ。僕ならまだ何とかできるかも知れないんだ。
約二十分後に笹野さんが運転する車が、病院の前に停まる。僕は急いで助手席に駆け乗って、シートベルトを締めながら笹野さんに尋ねた。
「ブラックハウンドは千代田区のどこにいるんですか?」
「分からない。これから車で巡回する。向日くんはフォビアを使ってくれ」
「ローラー作戦ですか」
「そうだ。恐らくブラックハウンドと霧隠れは同じ場所にいる。霧が完全に晴れるエリアを探すんだ」
笹野さんは僕の話に応えながら車を発進させた。僕のフォビアが働いて、車の周囲十数mは霧が晴れる。
笹野さんの意図は分かる。フォビアを発動している僕を車に乗せて、霧隠れの近くを通りかかれば、フォビアによって引き起こされた一部の霧だけじゃなくて、霧隠れのフォビア自体を封じられるから全ての霧が消える。そこから霧隠れ本体の位置を割り出そうって訳だ。
ブラックハウンドのフォビアによる被害が拡大する前に、二人を止めないと。
車のスピードが異様に遅く感じられて、僕は堪らず笹野さんを急かす。
「もっと速くできませんか? スピード違反を気にしてる場合じゃないですよ」
「そうじゃない。人間が飛び出して来るんだ。この混乱だからな」
笹野さんが答えた直後に、車の前を人影が横切る。
「うわっ!!」
僕と笹野さんは同時に声を上げた。急ブレーキが踏まれて、前のめりになる。心臓が止まるかと思った。
車のハイビームが恐怖に引き攣った男の顔を照らしている。どうにか接触せずに済んだみたいだ。ホッと気が緩んで、フォビアの意識が弱まる。
その直後に、黒い犬の影が車の前に飛び出した。危ない――と思ったのも束の間、
犬の影はライトに照らされて消滅する。
男の人は一度だけ僕達が乗っている車に振り向いて、すぐに走り去った。
……あっという間の出来事。ハイビームが無人の道路を眩しく照らしている。その様子を見ていた僕は、ハッと閃いて笹野さんに言った。
「そうだ、明かりだ! 明かりです! 明かりを絶やすなって、天の声が言ってたんですよ! ブラックハウンドのフォビアは明かりに弱いんだ! あれは暗所恐怖症のフォビアだから! そういう意味だったんです!」
「明かり?」
「全教一崇教の集会で言われたんですよ! 天の声! 天罰を
「成程。それを公安に教えてやってくれ」
笹野さんは左手をハンドルに添えたまま、右手で僕にスマートフォンを投げてよこした。そしてすぐに車を発進させる。
両手でスマートフォンを受け取った僕は、笹野さんに聞く。
「番号は!? 110番?」
「電話帳、公安、
僕は使い慣れないスマートフォンに苦戦しながら電話帳を開く。タッチして動かす事ぐらいは知っているさ。
電話帳の『公安』のカテゴリーには十人ぐらいの名前が並んでいた。あ、『尾先』もあるな。その下に『柏田』を見付けてコールする。
「はい。笹野、今どうしている?」
知らないおじさんの声に僕は緊張しながら言った。
「明かりを用意してください! 明かりで犬を撃退できるはずです!」
「ん? お前は誰だ? 笹野じゃないな」
「笹野さんは今、車を運転しています!」
「それで、お前は誰なんだ?」
「誰って……」
僕の名前を言って分かるんだろうかと疑問に思いながら、僕は答える。
「向日です」
「ムコウ?」
「そうです、向日!」
「ニュートラライザー?」
「まあ、そう呼ばれてるみたいですね……」
「明かり?」
「そうです、明かりです。犬は明かりで消滅します」
「何を言ってるんだ?」
確かに意味不明かも知れないけれど、そこは分かって欲しい。
「ブラックハウンドは暗所恐怖症のフォビアで――」
「ああ、分かった。成程な」
改めて説明しようとした直前で理解してもらえた。
理解してもらえて良かったという気持ちと、最後までちゃんと説明したかったという気持ちで、複雑な気分になる。まあまあ、それは今は小さな事だ。
僕と笹野さんは車で千代田区を一周して、霧が晴れる場所を探す。
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