Fの救世主

5

　地面に仰向けに転がった僕に向かって、公安の人――いや、公安の人かどうか分からないから、成場って呼ぶのが正しいのか？　成場は僕の顔面に拳を振り下ろした。

　僕は五縞さんに習った殺人術の事を思い出していた。そう、殺人術だ。成場は僕を殺そうとしている。

　防ぐ間もなく、警棒を握った成場の拳が僕の鼻柱にめり込む。

「ブヘ……」

　間抜けな音が僕の口から出る。ボゴッという衝撃と同時に、一瞬息が止まる。

　鼻が折れた？　痛い？　よく分からない。危機感とショックが大きくて、他の事は何も分からない。

　僕は遅れて顔面を防御する。その間に成場は僕に馬乗りになって、マウントポジションから拳を打ち下ろして来る。

　やっぱり、こいつは戦い慣れている。僕は顔面を庇うので精一杯だ。相手の拳を見切って避けるなんて事もできないし、反撃もできない。目も開けていられない。

　成場はガードしている僕の腕だけじゃなくて、側頭部や胸、肩も殴って来る。僕は暗闇の中でただ殴られているだけ。何もできない。悔しい。痛い……？

　……よく分からない。何故か余り痛みを感じない。殴られ過ぎて、感覚がおかしくなってしまったんだろうか？　それとも後から痛みが襲って来るパターンだろうか？

　ただ殴られているという感覚だけがある。

　数分後、成場の攻撃が止んだ。僕は恐る恐る目を開けて、ガードしている腕の隙間から様子を窺う。

　成場は肩で息をして、青ざめた顔をしていた。殴り疲れたのか？　僕はまだ意識があるのに。こいつ……意外と体力がない？

「こいつ、何だ？　何なんだ？」

　成場は独り言を呟いたけど、それはこっちのセリフだよ。反撃できない僕を一方的に殴ってた奴が言う事か？　何が起こったんだ？

　とにかく反撃のチャンスだと、僕は右手の二本指で成場の左目を突いた。迷いはとっくに消えていた。不意打ちは見事に成功して、指先にぐにゃりと嫌な感触がある。五縞さん秘伝の殺人技が一つ、目潰しだ。

　成場が堪らず怯んだ隙に、僕はマウントポジションから這い出して立ち上がる。

「ぐ、うぉおお！　こ、こいつ、こいつ……！」

　片目を押さえる成場の顔には恐怖の感情が浮かんでいる。何でだ？　本当に何があったんだ？　僕のフォビアなのか？　それとも誰かが助けてくれたのか？

　……いや、誰か助けに来てくれよ。こんな目に遭ってるのに誰も来ないのかよ！

　こういう時はさっさと逃げるのが正解だろうけど、成場がここで立ち塞がったって事は、近くに不都合な何かがあるって事だ。もしかしたら天衣さんが捕まっているかも知れない。

　成場は何を警戒しているのか、自分からは向かって来なくなっていた。僕はどうするべきだろう？　笹野さんが早くメールに気付いてくれれば良いんだけど……。

　そう思っていると、ピリリリリと携帯電話の着信音が聞こえた。取り敢えず、僕のじゃないな。館内に入る前にマナーモードにしたから、音は鳴らないはず。

　鳴り続ける着信音に、成場がそわそわし始める。そっちの携帯電話かよ。スマートフォンかも知れないけどさ。

　成場は通話に出たくても出られない状況で困ってるみたいだ。その直後、僕の上着のポケットにある携帯電話が震えた。笹野さんからかな？　でも僕も電話に出ている余裕は無いんだ。

　僕と成場はお互いに気まずい顔で向かい合う。その内に成場は左目の痛みが治まったのか、目を押さえていた手を離した。見たところ、特に負傷した様子はない。失明させても構わないつもりで思いっ切り突いたんだけど、浅かったか……。

　僕は応援が駆け付けてくれる事に賭けて、時間稼ぎに自分から成場に話しかけた。

「お前は何者だ！」

「それはこっちが聞きたい。お前は超能力を無効化するんじゃなかったのか？　化け物め……」

「何の話だよ」

　本当に分からない。あれだけ僕をボコボコに殴っておきながら、何をそんなに警戒しているんだ？　僕がそんなにダメージを負っていない事か？

　それは僕も不思議だよ。もしかして僕のフォビアは超能力に関係する事以外も無効にできるのか？

　睨み合って数分、成場が顔を顰めて舌打ちする。視線は僕の背後に向いている。

「向日くん、何をしている！」

　突然、僕は背後から声をかけられた。笹野さんの声だ。心配して探しに来てくれたんだろう。一人で行動した事を怒られるかも知れないけれど、この状況でそんなのは些細な事だ。

　僕はちらりと後ろを見て笹野さんの姿を確認すると、成場に目を戻して言った。

「この人が僕に殴りかかって来たんです！」

「何だって？」

　笹野さんが驚いた声を上げると、成場は僕達に背を向けて走り出した。

　こいつ、逃げるつもりだ！

「話は後です！　笹野さん、来てください！」

　僕は笹野さんに呼びかけて、成場の後を追って武道館の裏手に回る。

　成場はどうして公安だって名乗ったんだろう？　合言葉を知っていたのか？　嫌な予感がする。