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 空きビルの中は薄暗くて、柱や壁の隅には大きなクモの巣が不気味に垂れ下がっている。本当に僕一人で何とかなるのか……? 不安がどんどん大きくなって、僕はし潰されそうになる。……ええい、こんな事でビビってる場合か! やると言ったからにはやるんだ!

 僕は気力を振り絞って、足を前に進めた。右手には折り畳み傘を持つ。武器があるという事実が、僕の心に僅かだけど余裕を持たせる。


 うっすらと埃が積もった床のタイルの上には、複数人の足跡が付いていた。多分、弦木さん達の靴の跡だろう。足跡は階段から上の階に続いている。

 僕は足跡を辿って、前後左右上下、全方位を警戒しながら階段を一段ずつ上る。

 一段一段上がるに連れて、クモの巣が少しずつ増えている様だ。埃のかかったクモの巣が、天上から何本もたわんで吊られている。

 余りに静かで、幽霊屋敷みたいな不気味さだ。人の気配が感じられない。弦木さん達はどうなってしまったんだろうか……。


 足跡は二階からすぐに三階へと続いている。フロアを入念に調べた形跡が無い。

 どうしてだろう? 僕は疑問に思いながら、上へ上へと足を進めた。

 段々クモの巣が濃くなって行く。階段の手すりも真っ白な綿に覆われたみたいになっていて触れない。階段も両端はクモの巣で埋まっていて、真ん中しか歩けない。

 いや、本当に触れないとか歩けないって訳じゃないんだけど……触りたくないってのが正直なところ。嫌な予感がするんだ。

 このクモの巣は普通じゃない。確実にクモ女のフォビアだ。


 三階のフロアに出て、僕は絶句する。まるで巨大なクモの巣みたいに、フロア中が真っ白なクモの糸に覆われていた。足の踏み場もないぐらいだ。辛うじて人が通れる程度のクモ糸のトンネルがあるだけ。階段はまだ上に続いているけれど、完全にクモの糸で塞がれている。

 ……よく見れば、クモの巣は室内の鋭角を全て封じている。これじゃ弦木さんはフォビアを使えなかっただろう。

 一歩踏み出すとクモの巣が足にまとわり付く。抵抗感は余りないけれど、とにかく鬱陶しい。手にも時々クモの巣が引っかかる。振り解こうとすると、周りの糸が更に絡んで来る。僕は折り畳み傘を伸ばして、糸を巻き取りながら進んだ。

 この糸は本物なんだろうか? 増伏さんの話だと、フォビアには幻覚を引き起こすタイプと、実際に現象を起こすタイプがある。幻覚なら僕の無効化のフォビアで消せるかも知れない。実際のクモの糸だったら……消えないのか?

 分からないな。もう少し様子を見るとしよう。


 慎重にクモ糸のトンネルを潜って進んでいると、少し開けた場所に巨大なまゆの様な糸の塊があった。ちょうど大人が納まりそうなサイズで、しかも三つある。

 これが弦木さん達に違いないと僕は直感した。


「弦木さん?」


 僕は恐る恐る呼びかける。まさか死んでしまっているって事はないだろう……そう思いたい。

 残念ながら繭からの反応は無い。僕は折り畳み傘で足元のクモの糸を払いながら、繭を破ろうと近付いた。

 乾涸ひからびたミイラが入っていたりはしないよな……。とにかく無事であって欲しいと願いながら、僕は繭に手を伸ばした。

 もう数十cmで手が届くという所で、僕は視界の端を横切る影を捉える。慌てて振り向くと、そこには巨大なクモがいた。デカい。とにかくデカい。長さも幅も乗用車ぐらいで、体高が僕の目の高さまである。

 そしてキモい。とにかくキモい。長く太い金色の剛毛に覆われた巨大な脚、黒く輝く単眼はこちらを見ているかの様。まるで巨大なタランチュラだ。

 こんなのを僕は今の今まで見過ごしていたのか? 動悸が激しくなる。冷や汗が流れる。命の危険を感じる。こんな状況で襲われたら一溜まりもない。

 あり得ない、幻だ。幻であって欲しい。どうか幻であってくれ。

 必死に心の中で祈る僕に向かって、巨大タランチュラは一本の脚を伸ばした。その先から粘着ねばつく白い糸がスプレーで噴射されたみたいに飛び出す。

 僕は糸を防ごうと折り畳み傘を振るうも、防ぎ切れずに糸塗れになる。どうにか顔面だけでも守ろうと、両腕で顔の前を覆う。

 やっぱりおかしい……。こんな化け物みたいなクモが現実にいる訳がない。フォビアを使うんだ。そうすれば、このクモの化け物は消える……ハズ。

 僕は両目を閉じて必死に念じた。

 ここで倒れる訳にはいかない。僕が倒れたら全滅だ。僕が皆を助けるんだ!


 恐る恐る目を開けると……クモの糸は消えていた。僕の体にまとわり付いていた糸だけじゃなくて、部屋全体の糸が完全に消えている。

 巨大なタランチュラみたいなクモもいない。その代わりに、5cmぐらいのクモが埃の積もった床の上に落ちていた。

 やっぱり幻覚だったか……。小さなクモを幻で巨大に見せていただけなんだと僕は安心する。

 三つの繭があった場所を確認すると、弦木さん達が三人並んで壁にもたれる様に倒れていた。ヘルメットを被っているから表情は分からないけど、一見したところ外傷は無さそうだ。

 僕は弦木さんに近付いて、体を揺すって起こそうとする。全員フルフェイスのヘルメットを被っているけど、デザインが違っていて良かった。同じヘルメットだったら見分けが付かなかった。


「弦木さん、大丈夫ですか? 起きてください」


 反応が無かったらどうしようかと心配していたけれど、弦木さんは小さな呻き声を上げて、ゆっくりと目を開けた。そしてハッと顔を起こすと、周囲の様子を窺いながら立ち上がる。


「ここは……?」

「例のビルの中です」


 僕は安心して深い溜息を吐く。あー、良かった。涙が出そう。


「クモ女はどうなった?」

「ここにはいないみたいですけど、まだ近くにいるかも知れません」


 そう答えながら、僕は弦木さんから離れて三階のフロアを見て回った。さっきからクモは少しも動いていない。死んでいるのかなと思って近寄ってみても、全く反応が無い。僕は靴の爪先でクモを小突く。それでもクモは動かない。クモが脚の一本一本まで硬直したままなのを奇妙に感じて、僕はそっとクモに触って拾い上げてみた。

 ……プラスチックの作り物? 悪戯いたずら用のオモチャだな、これは。こんなオモチャに僕達はまんまとしてやられたのか?

 種が割れてしまえば、しょうもない物だった。僕は「ハァ」と大きな溜息を吐いて肩を落とす。

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