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 翌日、僕は増伏さんから護身術のレクチャーを受ける事になった。護身って事は、柔術や合気術みたいな格闘術だろうか? でも増伏さんが武術の達人だって話を聞いた覚えがない。人は見かけによらないから、実は結構な武術家だって事もあるかも知れないけど。


 午前十時、僕は動きやすい服装に着替えて、三階の小会議室に向かう。……着替えるって言っても、高校で使ってたジャージなんだけど。

 何で場所が小会議室なのかは分からない。模様替えすれば、組手をする広さぐらいは確保できるだろうけど……。それとも最初は座学から始めるのかな?


 僕が小会議室に入ると、先に増伏さんが待っていた。机と椅子は部屋の隅に片付けられていて、人が動き回れるスペースが確保されている。増伏さんはスーツ姿でトートバッグを持ってパイプ椅子に座っていた。

 実演はしないのかなと僕は増伏さんの様子を窺いながら挨拶した。


「おはようございます……」

「おはよう、向日くん。今日は護身術を教える約束だったね」

「はい」


 増伏さんと直接約束した訳じゃないんだけどね。例によって、副所長の上澤さんからの指示だよ。


「まずは私の話を聞いてくれ」


 やっぱり最初は講義からなのかなと思ったけど、僕が座る椅子が無い。

 増伏さんはおもむろに立ち上がると、椅子にトートバッグを置いて話を始める。


「向日くん、君のフォビアは無効化だ。つまり君のフォビアが働いている間は、相手はフォビアを使えない。だけど、それだけじゃ君が有利だという事にはならないぞ。後は単純な力と技の勝負になってしまう。分かるね?」

「はい」


 その点は僕だって心得ている。単純な力の強さでは、僕は屈強な大人の人には敵わないだろう。だから護身術が必要になる。


「そこで身を守る方法を伝授しようって訳だ。向日くん、もし君が『敵』と一対一になったら……どうする?」

「えっ……」


 僕は咄嗟に答えられなかった。


「どんな『敵』ですか?」

「そうだね。私の様な成人男性だとしよう」


 増伏さんぐらいの体格の人が相手って事だな。

 僕は少し考える。……でも、どうやっても勝てそうな気がしないぞ。身長も体重も負けている。そもそも僕は本気の喧嘩なんかした事が無い。ちょっとやそっと格闘術を習っても焼け石に水じゃないだろうか?


「逃げる……?」

「そういう選択もあるだろう。だが、いつでも逃げられる状況とは限らないし、どうしても戦わないといけない状況になるかも知れない」


 つまり増伏さんは、どうにか乗り切る方法を教えてくれるんだろう。そのための護身術だ。

 増伏さんはトートバッグから折り畳み傘を取り出した。


「腕力で敵わない時は道具を使うんだ。人間ならばね」

「傘……?」

「これが一般人が常時携帯できる武器の限界だ。一般人には武器の携帯は許されていない。私達は警察でも軍隊でもないからな。ナイフや棒切れでさえ、使途が明確でない限りは所持できない」

「でも傘って」

「何も無いよりはずっと良い。まず考えるべきはリーチだ」


 そう言いながら増伏さんは続けて、バッグから500mlの空瓶を取り出した。

 他にも手袋、胡椒瓶、指し棒、ガムテープ、囲碁セットを出して床に並べる。


「手元にある物は何でも武器として使える。怪しまれずに携帯できる物は限られてしまうが……」

「こんなのが武器になるんですか?」

「まともな武器にはならない。だが、無策のまま素手で戦うよりは良い。物を投げ付ければ、相手は怯む」


 それにしても余りにも頼りない。折り畳み傘で殴られたところで、少し痛いだけじゃないか……。


「護身用グッズじゃいけないんですか?」

「スタンガンや催涙スプレーも一般的には凶器扱いだよ。それに相手はこちらの都合を考えてはくれない。向日くん、良いかい? これから私達は命懸けの戦いをしに行く事になるんだ。相手も必死になる。君も必死にならないといけない」

「はい……」


 分かってはいるんだけど、目の前の道具は弱過ぎる。困惑する僕の内心を知ってか知らずか、増伏さんは続ける。


「自分より強そうな相手と戦う時は、とにかく距離を保つんだ。手近にある物は手当たり次第に投げ付けて、傘でも棒でも無闇に振り回さずに、とにかく『突き放す』事に集中する。設備でも石ころでも砂粒でも利用できる物は何でも利用する。この室内だと机や椅子とかな。時間を稼ぎ、引き付けては離れ、また引き付けては離れを繰り返し、相手の体力の消耗を狙う」

「それで……どうするんですか?」

「味方がいるなら、味方の応援を待つ。もし一人だけで、どうしても勝てそうになければ、相手の疲労を待って逃げる」

「そう上手く行きますか?」

「行く、行かないじゃない。やらなければならない。そういう時の話をしている」


 増伏さんに厳しい口調で言われて、僕は驚いた。悠長な事は言ってられないって事だろう。


「それと、これも憶えておいてくれ。フォビアの発動にはルールがある」

「恐怖症が発症する状況じゃないと発動しないって事ですよね?」

「間違ってはいないが、補足しておこう。フォビアは認識だ」

「……どういう意味ですか?」

「例えば、私のフォビアは鏡さえあれば発動できるが、自分か相手のどちらかが鏡を認識している必要がある」


 つまり……どういう事だ?

 まだよく分からない僕に、増伏さんは具体例を列挙する。


「フォビアには環境に影響を及ぼすタイプと、人に影響を及ぼすタイプがある。私の場合は後者だ。このタイプは自分の認識か相手の認識でフォビアを発動させている」

「つまり……?」

「完全な不意打ちはできないという事だ。私が自分の意思でフォビアを発動させようと思えば、私が対象を鏡で捉えている必要がある。当然、私の視界の外ではフォビアは発動しない」

「それは分かります」

「私は自分のフォビアを相手に伝染させる事もできる。完全にではないが、ある程度は狙って可能だ。この場合は相手が鏡を見ていれば、フォビアが発動する。但し、私の思った通りには制御できない。だから確実に発動させるためには、自分と相手の認識が一致する様に仕向ける。これは私に限った事じゃない。フォビアの制御が不安定な人も、同じ様な手間をかける」

「つまり?」

「いざという時には、相手から身を隠すんだ。フォビアの扱いが未熟な相手なら、それだけでフォビアの影響から逃れられる……かも知れない」

「はい」


 確証は無いのか……。そこは言い切って欲しかったけど、本当のフォビアの暴走は無差別に周囲を巻き込むから、絶対に大丈夫だとは言えないんだろう。


「もう一つ! フォビアは実際に現象を起こすタイプと、幻覚を見せるだけのタイプがある。フォビアが見せる幻覚は、必ずしも現実と同じ性質を持つとは限らないが、現実の現象に影響される場合もある」


 また分からない事を言い出したぞ。


「フォビアは思い込みだ。幻覚も現実の現象をモデルにしているから、より現実に近い幻覚は現実の影響を受ける。一方で現実とは全く無関係な思い込みが作用する場合もある。例えば、幽霊恐怖症のフォビアがあったとして、それによって生み出された幽霊には弱点がある訳だ。フォビアの持ち主が定めた弱点がね。勿論、弱点なんか無い場合もあるんだが」


 ややこしい。そんなの初見では分からないって。

 また僕が反応に困っていると、増伏さんは真剣な表情で言った。


「フォビアが現実の現象を起こしているのか、それとも幻覚を見せているだけなのかを見極める事は、フォビアを攻略する上では必要な事だ。無効化できる君には、どっちでも良いかも知れないが……」

「ああ、成程。そういう事でしたか」


 幻覚なら慌てる必要は無いけど、現実の現象なら急いで無効化しないといけない。この先、そういう判断を迫られる時があるかも知れない。


「さて、今の私が教えられるのは、この位だな。何か質問は?」

「えーと、武術とかは教えてもらえないんでしょうか?」

「ははは。私は武術家じゃないから、それは無理だ。確か炭山がインド武術の修行をしていたらしいから、彼に習ってみるかい?」

「インド武術ですか……」


 それから僕は増伏さんに簡単な護身術を教わった。

 増伏さんは大人の男の人だから、フォビアが使えなくても僕より力が強い。そういう人を相手に、どう立ち回るかという練習だ。

 インド武術は……よく知らないし、炭山さんが修行してたって時点で何となく怪しさを感じてしまうから、もっとちゃんとした人に教えてもらう事にしよう。

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