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 僕が治療室から出ると、耳鳴さんと穂乃実ちゃんが廊下の長椅子に座って待ってくれていた。僕の姿を見るなり、穂乃実ちゃんは目に涙を浮かべて、声を立てずに泣き始める。


「どうしたんだい? 大丈夫?」


 慌てて穂乃実ちゃんの前に屈み込んだ僕に、耳鳴さんが説明する。


「この子が向日くんを待つと言って聞かなくてね。君の姿を見て安心したんだろう。その様子だと体の方は大丈夫だったのかな? 元気そうで良かったよ」

「ああ、これは……ご心配をおかけしました」

「私よりもこの子に言ってあげるべきだね」


 僕は穂乃実ちゃんを宥める様に、小さな肩に手をかけて言った。


「僕は大丈夫だから、もう泣かないでくれ。心配かけてごめん。心配してくれてありがとう」


 穂乃実ちゃんは僕の胸に泣き付いて来る。家族を失った穂乃実ちゃんにとって、僕はお兄さんの様な存在になっているんだろうか?

 もう少し穂乃実ちゃんが小さかったら、抱っこして部屋まで連れて帰ってあげるんだけど、ちょっと成長し過ぎている。今の僕では確実に運んでいる途中で力尽きてしまうだろう。だから、そっと抱き留めるだけにして、落ち着くまで静かに待つ。

 耳鳴さんは徐に立ち上がって言った。


「じゃあ、私はお先に失礼するよ。平家さんの事は任せたよ、向日くん」

「はい」


 耳鳴さんが去った後に、日富さんが治療室から出て来る。穂乃実ちゃんを抱き締めている僕を見て、日富さんは小さく溜息を吐いた。


「小さい子を泣かせてはいけませんよ」

「はい……」


 返す言葉も無い。開道くんの様子がおかしかった事をすぐに見抜けなかった事も、二度もフォビアの攻撃を受けた事も、僕の落ち度だ。


 それから五分ぐらい経って、ようやく穂乃実ちゃんは泣き止んだ。涙と鼻水と涎で僕の服は濡れてしまったけれど、後で着替えて洗うからそれは良いよ。

 僕は穂乃実ちゃんの手を引いて、地下の保護室に移動する。


 別れ際に穂乃実ちゃんは僕に聞いて来た。


「カイドーさんはどこに行ったの?」

「……大丈夫だよ。きっと兎狩さんが連れて帰ってくれる」


 僕はそう答えるしかないし、そう信じるしかない。

 僕がもう少ししっかりしていれば、何とかできたんだろうか? 開道くんの様子がおかしかったのが、もし何者かのフォビアの影響なら……。

 僕は胸の中に後悔と不安を抱えながら、一人で自分の部屋まで戻る。



 自分の部屋に入って時計を確認すると、午後三時を過ぎていた。何時間も気絶していた事実に僕は驚く。もしかしてかなり危険な状態だったのか?

 あ、そういえばお昼ご飯を食べていない。お腹が空いたな……。いやいや、そんな事より三時間以上も経って、まだ開道くんと兎狩さんは戻って来ていないのか……。


 もしも二人が帰って来なかったら? 思い返しても悔やまれる事ばかりだ。

 あの時、僕は痛みを堪えてフォビアを使う事ができなかった。苦しみより楽な方を選択してしまった。そうせざるを得なかったんじゃない。自分で選んだんだ。

 結局、僕は何だかんだ偉そうな事を言っていても、いざ自分の命が危なくなると何もできない。口先では「これからは人のために生きるんだ」と言いながら、F機関でぬるま湯に浸かっていた。フォビアの力で何でもできる気になって思い上がっていたのが、現実を知らされたんだ。僕は激しい自己嫌悪に陥る。

 開道くん、どうか無事でいてくれ。兎狩さんも。

 もし二人に何かあったら……いや、何もなくても僕は今の生き方や考え方を見直さないといけない。誰かに守られてばかりじゃなくて、僕も皆のために戦わないと。

 開道くんがおかしくなってしまったのが解放運動の仕業だとしたら、僕は解放運動を許してはおかない。

 暗くて重い嫌な気持ちが心の中で渦を巻いて、気分が悪くなる。誰かを敵視して害意を持ったり、怒ったり憎んだりするのは良くない事だ。それでも僕はこの平穏を壊した人達を恨む。

 あぁ……でも、今ここで恨みの気持ちを膨らませたところで、どうしようもない。荒んだ気持ちを静めるために、僕は何度か深呼吸をする。

 そして、お腹が空いている事を思い出す。取り敢えず、ご飯を食べよう。

 今は純粋に開道くんが無事に帰って来てくれる事だけを願うんだ。



 三時間遅れで昼食を取った後、僕はビルの入口で兎狩さんと開道くんが帰って来るのを待った。ただ待ち続けた。

 だけど、外が暗くなっても二人は帰って来なかった。猛烈に嫌な予感がする。

 幾草がC機関に捕まった時の事を思い出すけど、状況はあの時より悪い。僕は携帯電話を取り出して、開道くんの携帯の電話番号をコールしてみた。

 ……呼び出し音は鳴るけど、一向に出てくれる気配がない。その内、留守番電話サービスに繋がった。僕は小さく息を吐いて通話を切る。もしかしたら開道くんは携帯をビルの外に持ち出していないのかも知れない。携帯なのに不携帯って奴だ。

 そのまま夜を迎えて、僕は自分の部屋に戻り、不安な気持ちで一夜を過ごした。

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