3
気まずい空気になって僕と裕花は二人で黙り込む。気まずい。何か言わないと……と思っていた時、横から幾草が話しかけて来た。
「勇悟! それに……
幾草は横から裕花の顔を覗き込んで、少し考え込む。
僕は幾草に尋ねた。
「幾草、裕花を知ってるのか?」
「彼女、ユーカって言うの? いや、知らないけど」
「今、『富士』って」
裕花の名字は富士だ。偶然で名字を言い当てるなんて事があるんだろうか?
「ああ、それは……似た感じの知り合いがいてな。富士
その言葉に裕花が反応した。
「お姉ちゃんを知ってるんですか?」
「『お姉ちゃん』って事は……妹? 富士の妹なのか?」
「もしかして第四高校の方ですか?」
「そうだよ、四高だ。俺は幾草千十兩」
「富士裕花です」
二人は自己紹介し合う。
つまり裕花のお姉さんと幾草は同じ高校に通っているんだな。こんな偶然があるのかと僕はちょっと感心していた。
「それじゃあ、私はこれで……」
裕花は小さく礼をして、流れるプールに向かう女子の集団に合流した。
僕は密かに安堵の息を漏らす。今の状況を深く突っ込まれなくて助かった。
部外者にフォビアの事は話せないし、だからってウエフジ研究所でどんな仕事をしているか、アドリブでごまかせる気もしない。
僕達は水分補給しながらプールサイドのベンチで休憩する。少し冷えた体に夏の日差しが温かい。
上澤さんや芽出さん、倉石さん達も50mプールから上がって、僕達と合流して休憩する。他の人達は体力にまだ余裕があるみたいだけど、倉石さんは一人だけ疲れ切った顔をしていた。それを高台さんがからかう。
「もうバテたのか?」
「そりゃバテますよ。皆して泳ぐの速いんですから」
「運動が足りてないな」
倉石さんは標準的な体型だけど、高台さんは筋肉質だ。日頃からジムで鍛えているだけはある。僕もあのくらいは筋肉が欲しいな。
そう思っていると、高台さんは僕に振り向いて言う。
「向日くんも一緒に泳がないか?」
「いや、僕そんな水泳が得意じゃないんで……」
「50m何秒?」
「計った事ないですけど、大体クラスの平均ぐらいでしたよ」
「それじゃあ倉石となら良い勝負ができるかもな」
高台さんがちらっと倉石さんを見ると、倉石さんは慌てて首を横に振る。
「もう競争は勘弁してください。ヘトヘトですよ」
「若いのにだらしないぞ」
弱った声を上げる倉石さんに、その場の皆が笑い出す。
楽しい
少し間を置いて、上澤さんが立ち上がって、船酔さんを泳ぎに誘った。
「船酔、お目付役ご苦労だったな。後は高台に任せて、一緒に泳がないか?」
高台さんは不満そうな顔で言う。
「ええっ、私が見張りですか?」
「君は出かける前に、自分も監督するって言ったじゃないか」
確かに言っていたけど、上澤さんも監督するって言ってたよね。でも、船酔さんにもプールを楽しんでもらうためには、
上澤さんは船酔さんと競技用のプールに向かう。船酔さんは一度振り返って、高台さんに断りを入れた。
「済まんな、高台」
「まあ良いっすよ。俺も少し疲れてたんで」
高台さんはヒラヒラと手を振って見送る。
また少し間を置いて、今度は芽出さんが僕に話しかけて来た。
「向日くん、今度は私と一緒に泳がない?」
「いや、でも僕は……」
「水泳が苦手なら、私が教えてあげるよ」
僕は言い訳に穂乃実ちゃんの方を見た。でも当の穂乃実ちゃんは泳ぎの練習で疲れていたのか、勿忘草さんの膝枕で安らかに眠っている。
「ホノちゃんの事なら私に任せてください」
勿忘草さんにそう言われても、今の僕は素直にプールを楽しめる気分じゃない。
気乗りしない僕を見かねてか、勿忘草さんが僕に言う。
「忘れさせてあげましょうか?」
「いや、大丈夫です。それじゃ、ちょっと泳いできます」
勿忘草さんのフォビアのお世話になる訳にはいかない。彼の事はそんな簡単に忘れちゃいけないんだ。
僕は深呼吸を一つして気持ちを切り替え、空元気を振り絞った。
芽出さんに連れられて行った50mプールは深かった。いや、深いどころか足が着かないじゃないか! 倉石さんが疲れる訳だよ。
それでも他の人達は平気で泳いでいる。まあこっちのプールは泳ぎに自信のある人しか来ないから当然か……。
僕は溺れない様に浮かび続けるだけでも大変だ。それなのに芽出さんも上澤さんも勝負をしかけて来て、僕はすっかりバテてしまった。勝負の内容は、僕と芽出さんのチームと上澤さんと船酔さんのチームに分かれてのリレー方式の勝負だった。僕は遅かったんだけど芽出さんが追い上げて、この勝負に勝ってしまった。
「はぁ、ブランクが長かったかなぁ」
上澤さんが負け惜しみを言っている。
二回も勝負をして体力を使い切った僕は、プールから上がってベンチで休憩する。上澤さんも疲れた様子で、高台さんと監督を交代した。
大きな溜息を吐いてぐったりとベンチにもたれかかり天を仰ぐ僕に、上澤さんが尋ねて来る。
「はぁ、ところで調子はどうだい?」
「とにかく疲れました……」
「そうじゃなくて、能力の方だよ」
「ああ、多少はコントロールできる様になったと……思います」
「それは良かった。君には多くの人を救って欲しい」
「はい」
僕は大きな雲が浮かぶ夏の青空を見上げながら答えた。誰に言われなくても、そのつもりだ。フォビアの人達を助けるために、一生を捧げても構わない。一度は捨てた人生だから。
午後四時に僕達はプールから出て、帰路につく。僕は休憩後にも目覚めた穂乃実ちゃんの水泳の練習に付き合って、疲れ果ててしまった。そのせいで帰りのバスの中でうっかり眠ってしまう。今日はフォビアを使っていなかったのに。深いプールで泳いだのが失敗だったかな。
それでも悪くない一日だったと思う。こんな風に皆で出かけられるイベントが他にもあれば良いんだけど……人それぞれのフォビアがあるから「皆で」ってのは難しいだろう。
いや、僕が心配する様な事じゃないのかも知れない。他の人は他の人で、自分なりの楽しみを見付けているんだろう。ずっと研究所にこもっている人は少ないはずだ。
僕が心配するべきなのは、穂乃実ちゃんみたいに出たくても出られない人。
僕がいればフォビアの心配をしなくて良いと、堂々と言い切れるくらいにはフォビアを使いこなさないと。僕は改めて決意した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます