燃える夏
1
それから数週間後、月は替わって八月。僕は穂乃実ちゃんを連れて、初めて二人だけで外出する。
夏の暑い日だけど、穂乃実ちゃんのフォビアは暴走しないみたいだ。
これまでの訓練で、明確にこれだとは言えないけれど、フォビアが暴走する要因は分かって来た。穂乃実ちゃんにとっては単に「火を見る事」よりも、「火事を連想させる事」の方が良くないらしい。マッチやライターの火を見ても抑えられる様にはなったけれど、火事は映像でも無理だった。
穂乃実ちゃんがフォビアを完全に失うのは、まだまだ先の事だろう。それでも雨の日以外でも外出の許可が出る様になったのは、大きな前進だ。
僕と穂乃実ちゃんは研究所の周りを散策する。まだ遠出は許可されてないけれど、こういうのは小さな一歩の積み重ねだ。市街地に移動できる様になれば、行動範囲がぐっと広がる。
今回みたいな近くを歩き回るだけの外出は、穂乃実ちゃんにとっては退屈かも知れないけど、我慢してもらうしかない。
僕達は手を繋ぎながら、夏の日差しを避けて街路樹の影を歩く。ただそれだけで、穂乃実ちゃんがつまらなく感じてはいないかと僕は心配した。
「何回か外出して問題が無かったら、市街地に出かけるのも許可されるだろうから。それまで我慢してくれな」
穂乃実ちゃんは俯きながら無言で頷く。
何も言わないままなのも気まずいから、僕が話題を提供しないと。
「この辺はもう歩き慣れたかな?」
穂乃実ちゃんは再び頷く。
「どこか行ってみたい所はある?」
余り気を持たせる様な事を言うのは良くないけれど、希望ぐらいは聞いておいても良いだろう。次の予定も立て易くなる。
穂乃実ちゃんは考え中なのか、無言のままで返事をしない。もしかしたら外出自体が嫌いで、行ってみたい所なんて無いとか?
「分かんない」
しばらく経って返って来た返事は、そっけない物だった。
今まで市街地に出かけた事がないから、どこに何があるかも分からないんだろう。どこにも行きたくないなんて事はないはずだ。
「市内には動物園もあるし、水族館もある。遊園地は無いけど……遠くに行ける様になったら、いろんな所に行ってみよう」
「うん!」
穂乃実ちゃんは元気良く返事をしてくれた。
これで良い。明日への希望が今日を明るくするんだ。
燃える様な夏の日差しの中、僕達は木陰のベンチに座って少し休憩する。
穂乃実ちゃんは僕の手をしっかり握って放そうとしない。一度放したと思っても、すぐに繋ぎ直す。……まあ良いんだけど。
はぁ、暑い。街路樹のセミがうるさい。ああ、どうせ一週間の命なんだ。今の内に好きなだけ騒いでいれば良いさ。僕の青春は取り返しが付かないけれど、他人の青春を妬む事はしないよ。
僕が汗を拭うと、穂乃実ちゃんがおずおずと話しかけて来た。
「あの……あのね、名前を教えてください」
「名前? 僕の?」
前に自己紹介をしなかったかな? 最初に面会した時は薬を投与されていたから、憶えていないのかも知れない。
「篤黒勇悟……だけど、研究所の中では『向日衛』だ」
「ユーゴ? マモル? どっち?」
どっちでも良いんだけど、そう言われても穂乃実ちゃんは困るだろう。
僕は少し考えて、こう言った。
「向日衛で憶えてくれ」
「ムコウ、マモル。ムコウマモル、ムコウマモル、ムコウマモル……憶えた」
穂乃実ちゃんはにっこり笑う。
それから少しの間を置いて、穂乃実ちゃんは再び僕に聞いて来る。
「マモルさん?」
「どうしたの?」
「マモルさん……で良いですか?」
どうやら僕の呼び方を考えているらしい。
「好きに呼べば良いよ」
「マモルさん」
「何?」
「フフフ、マモルさん」
何が面白いのか、穂乃実ちゃんは僕が反応するだけで楽しそうだ。このくらいの女の子が考える事はよく分からないなぁ……。
僕と穂乃実ちゃんは休憩を終えて、散策を再開する。ちょうど自販機の前を通りかかったので、僕は足を止めた。
「何か飲む?」
穂乃実ちゃんも喉が渇いていたんだろう。僕の問いかけに間髪を入れずに頷いた。
僕はスポーツドリンクを買う事にする。何故かって、体内に水分が吸収されるのが早い気がするからだ。実際に早いんだっけ? こんなのは気分だよ、気分。
僕は硬貨を投入すると、まず穂乃実ちゃんに尋ねる。
「どれが良い?」
「これ!」
ピッと押したのは、ビン入りの乳酸菌飲料。
そういうのが好きなのかな?
「マモルさん、ありがとうございます」
「どういたしまして」
深く頭を下げる穂乃実ちゃんを見て、そこまで畏まらなくてもと僕は思うけれど、穂乃実ちゃんは冗談めかしている風でもある。かわいらしい。
穂乃実ちゃんがビンを取り出したのを見て、僕もスポーツドリンクを買った。
それから穂乃実ちゃんはすぐにビンの蓋を開けようとしたけど、固くて開けられないみたいだ。手こずっているのを見かねて、僕は言う。
「開けようか?」
穂乃実ちゃんは小さく頷いて、僕にビンを差し出した。
「むぅっ!」
気合を入れてぐっと力を込めて蓋を回すと、カチリと音がして固定が緩む。意外と簡単に開けられたな。ジムでのトレーニングの成果だろう。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
僕達は飲み物を片手に、空いた片手を繋ぎ合って、散策を続ける。
約二時間かけて研究所の周りを歩いた僕達は、エアコンの効いている研究所の中に戻る。
穂乃実ちゃんのフォビアが暴走する事は全く無かった。ずっとこんな感じなら良いんだけど、それじゃあ訓練にならない。不意にトラウマを刺激する事が起こっても、ある程度は動揺を抑えられると判断されないと、なかなか遠出は許可してもらえないだろう。穂乃実ちゃんを地下一階に送りながら、僕は真剣に考えていた。
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