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 それから一月、梅雨も終わって夏の盛りに入る。僕はと言えば、相変わらずの日々を過ごしていた。毎日、勉強・運動・外出の繰り返し。パターンの少ないスケジュールながらも、それなりに充実はしている。

 その間、超能力解放運動の話は一度も無かった。勿論、遭遇する事もなくて……。平和と言って良いんだろうか? 僕に話が来ないだけで裏では他のフォビアの人達が動いているのかも知れない。

 それはそれとして、僕は正式に穂乃実ちゃんのフォビアを訓練する担当者の一人に決まった。そして初めて僕と穂乃実ちゃんの二人だけで訓練をする日が来た。



 とにもかくにも、まず僕が日富さんのカウンセリングを受ける。指導者の自分が心身共に健康じゃないと、とても他人の訓練なんか任せてもらえない。

 穂乃実ちゃんとの訓練を後に控えて、あれこれ心配している僕の心を読んで、日富さんは優しく微笑んで言う。


「少し緊張していますね」

「ええ、はい。自覚してます」


 不安な気持ちは当然ある。穂乃実ちゃんがいきなりフォビアを暴走させたら、僕は上手く対処できるだろうか? 暴走なんてそうそう無いと思いたいけど、絶対とは言い切れないから心構えは必要だ。


「あなたの場合は不安な気持ちもフォビアを発動させる要因になるので、過度に心配する必要は無いとは思いますよ。それよりも訓練の手順は憶えましたか?」

「まずはフォビアをどこまで抑えらえるかを確かめる。それから実際にフォビアを使わせてみて、様子がおかしかったり、無理をしているのが分かったら止めさせる」

「そうですね。フォビアの扱いに慣れない内は、心と体の負担が大きいです。少し疲れが見えたぐらいでも中止した方が良いですよ。訓練時間が短くなっても気にしないでください。最初の内は一度や二度が限界でしょう。それで訓練を中止しても、その場ですぐに解散せずに、コミュニケーションを取ってください。双方の信頼関係が大事ですからね」

「はい」

「がんばって」

「はい」


 励ましの言葉をもらっても、僕は愛想笑いしかできない。心に余裕が無いんだなと自分でも思う。

 カウンセリングを終えた僕は、エレベーターで地下一階の第二実験室に移動する。



 誰もいない第二実験室には、ジュラルミンのケースが一つだけ置かれている。中身はライター、折り紙、画用紙と色鉛筆、ミニチュア模型。

 穂乃実ちゃんの最初の訓練は、火を見ても動揺しない様にする事だ。ここ数月の穂乃実ちゃんの精神状態は、かなり安定しているらしい。だけど、それは火を連想させる物を遠ざけているからであって、恐怖症を克服しているとは言えない。ちょっと火を見たくらいじゃ暴走しない様になるまで訓練しないと、日常生活もままならない。


 僕がスーツケースの中身を確認していると、穂乃実ちゃんが女性の研究員に連れられてやって来た。

 この研究員さんは知らない人だ。地下で働いている職員さんとは顔を合わせる機会が少ないから、まだまだ知らない人が多い。

 僕は自分から穂乃実ちゃんに挨拶をする。


「おはよう」

「おはようございます」


 穂乃実ちゃんは小声で挨拶を返す。

 研究員さんは僕を見て言った。


「それではお願いします」

「分かりました」


 時刻は午前十時。僕はメモ帳に時間を書き込む。これは正式な訓練だから、後でレポートを提出しないといけない。

 研究員さんは一時的に退室して、僕と穂乃実ちゃんの二人だけになる。

 穂乃実ちゃんは上下共に丈の短い軽装だけど、これはフォビアが暴走した時に衣服への着火を防ぐためだ。


「じゃ、始めよう」


 僕はスーツケースから折り紙を取り出した。そしてオレンジから深紅まで、赤系統の紙を何枚か引っ張り出して見せる。


「大丈夫?」


 穂乃実ちゃんに尋ねると、平気な顔でこくんと頷いて返された。赤い物を見た程度じゃ反応しないのかな?

 次に赤い折り紙を三角に折る。


「これも?」

「ぜんぜんヘーキ」


 赤い図形じゃ反応しないって事だな。それなら絵はどうだろう?

 僕は画用紙に色鉛筆で絵を描いた。数秒で描ける様な、簡単な焚き火の絵。それを穂乃実ちゃんに見せる。


「こういうのは?」

「……ウフフ」


 急に笑われて僕は困惑する。

 何か変だったかな? そりゃあ上手とは言えない絵だけども、ちゃんと焚き火には見えるだろう。そう思っていた僕に穂乃実ちゃんは言う。


「ちっともこわくない」


 そうなのか……。僕の画力の問題でもあるんだろうけど、このぐらいは平気と。

 ……だったら光はどうだろう? 火はだ。どっちが欠けていても火にはならない。その片方、光への反応はどうだろうか?

 僕はハンドライトを取り出して、穂乃実ちゃんに見せる。


「これは何か分かる?」

「ライト」


 試しに僕はライトを穂乃実ちゃんに持たせてみた。


「点けてみて」


 そう難しい事じゃないはずだ。光を極端に恐れているんじゃない限りは。

 穂乃実ちゃんに怖がる様子は無い。普通にスイッチを入れて、あちこちを照らす。


「大丈夫?」


 また頷く穂乃実ちゃん。

 この後、消防車や救急車のミニカーを見せたけど、穂乃実ちゃんは大きな動揺を見せなかった。そこで僕は実際に火を見せようと考えた。

 僕は取り出した物をスーツケースに片付けて、代わりにライターを取り出し、穂乃実ちゃんに見せた。


「これはライター。知ってる?」

「知ってる」


 いくら子供でも知らないって事は無いか……。穂乃実ちゃんの表情はちょっと強張っている。少しだけど恐怖を感じているみたいだ。


「今から火を点けるけど、平気かな?」


 僕の問いかけに、穂乃実ちゃんは緊張したままでゆっくり頷く。少しも平気な様には見えないぞ。

 僕は穂乃実ちゃんの恐怖心を和らげるために、安全な事を説明した。


「少し離れて点けるよ。そんなに大きな火は出ないから安心して」


 僕は穂乃実ちゃんから二歩離れて、ライターのスイッチをカチッと押す。普通にポッと小さな火が点くだけだ。何の変哲もない。

 さて、どんな反応をしているかなと僕は穂乃実ちゃんに目を向ける。穂乃実ちゃんはジッとライターの火を見詰めていた。怖がっているのか、それとも何とも思ってないのか、心の動きは読めない。

 ちょっと火が熱いなと感じて、僕は視線をライターに戻し、ぎょっとした。


「うおおぉ、何ぃっ!?」


 思わず声を上げてしまう。ライターの火が何倍にも燃え上がっている。これはもう火じゃなくて火柱だ。

 僕は慌ててスイッチから手を放したけど、火の勢いは弱まらない。真っすぐ長く伸びる火柱は、まるで炎の剣。フォビアが発動してしまっている!


「穂乃実ちゃん!」


 僕は穂乃実ちゃんに呼びかけたけど反応がない。そうこうしている間にも炎の勢いは強くなって、天上を焦がし始める。

 ヤバい、ヤバい! とにかくヤバい! 何とかしないと。研究所が火事になったら大変だ。水……いや、水ぐらいで収まる勢いには見えない。僕のフォビアで何とかするしかない! 研究所の人達に迷惑はかけられないし、何よりも穂乃実ちゃんを守るために!


 ――僕の焦りにフォビアが反応したのか、火の勢いは少しずつ小さくなって、完全に消えた。

 僕は火の消えたライターを床に置くと、穂乃実ちゃんに駆け寄る。


「大丈夫か、穂乃実ちゃん!」


 僕が穂乃実ちゃんの前に屈み込んで、そっと体に手を添えると、穂乃実ちゃんは急に泣き出した。そのまま大声を上げて泣きながら、僕に泣き付いて来る。

 きっと怖かったんだろうと思って、僕は穂乃実ちゃんの背中をさする。


「もう大丈夫だから。安心して。火は消えたよ」


 穂乃実ちゃんは激しく泣きじゃくるばかりで、答える余裕もないみたいだ。気の済むまで泣かせよう……と僕が思っていると、異変を察知した研究員さんが鬼気迫る表情で実験室に入って来る。


「大丈夫ですか!?」

「あっ! だ、大丈夫です。ちょっと天井が焦げましたけど」


 最近「大丈夫」が口癖になっている気がする。まあ今は大丈夫だ。

 しかし、この状況は誤解されやしないだろうか? 僕が穂乃実ちゃんを泣かした風に見える……いや、確かに僕が泣かした事には変わりないんだけど。


「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」


 少し落ち着いたのか、穂乃実ちゃんはぐずりながら謝り続ける。


「いいよ、いいよ。全然平気だったから。なんて事ないさ、こんなの」


 僕は強がって穂乃実ちゃんを宥めた。心の中は少しも平気じゃなかったけど、無傷だから良いだろう。僕の前ではどれだけフォビアを暴走させても大丈夫だと思ってもらいたい。他人を巻き込む事がフォビアの恐ろしさなら、フォビアを抑えられる僕がいる事で、フォビアに対する恐怖心も少しずつ和らぐだろう。そうやってトラウマを克服する様に、フォビアも克服する……様になれば良いなと僕は思う。

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