2
更に二週間後、僕は穂乃実ちゃんと外出する機会を得る。日富さんの説得が功を奏したんだろう。
それまでの二週間、僕は幾草と勉強したり、芽出さんや勿忘草さん以外のフォビアの人達とも外出したりして過ごした。
幸い、危険な事は一度も起こっていない。解放運動の人達と会う事も無かった。
このまま何も起こらない事を願う。
穂乃実ちゃんとの外出当日、天気は
でも、火を恐れる穂乃実ちゃんのフォビアにとっては好都合かも知れない。雨の日なら自然発火の可能性も低くなるだろう。
午前十時、僕は穂乃実ちゃんと一緒に研究所を出る。……勿忘草さんも一緒に。
穂乃実ちゃんは夏用のスポーツウェア、勿忘草さんは薄手の白いワンピースを着ている。僕も夏らしく薄い
まずは研究所から離れ過ぎない程度に、近場を散策。
穂乃実ちゃんは、それでも楽しいみたいだ。研究所の中にばかりいたから、解放された気分なんだろう。どうという事はない雨の街の風景、いつもより
取り敢えず、今のところは発火の心配は無さそうかな? 僕は穂乃実ちゃんを見守りながら、勿忘草さんに問う。
「やっぱり僕だけだと心配だって事なんですかね……」
「お邪魔ですか?」
「いや、そんな事は無いです。寧ろありがたいです。ただ……まだまだ一人前には遠いなと思っただけで」
実績が足りないんだろう。まだ自由にフォビアの能力を使えると、認めてもらえていない。僕自身にも不安が無い訳じゃない。
そんな事を考えていると、遠くで救急車のサイレンが聞こえた。急いで出動するところだろうか、「ピーポーピーポー」と「ウー」という二種類のサイレンが交互に鳴っている。街の方で事故でもあったんだろうか?
その時、黄色い傘がバサッと落ちる。何事かと思って、僕は穂乃実ちゃんを見た。
穂乃実ちゃんはサイレンの鳴っている方向を見詰めて、茫然と立ち尽くしている。
「穂乃実ちゃん?」
僕が呼びかけても返事をしない。雨に打たれても何も感じていないみたいだ。どう見ても正気じゃなかったから、僕は勿忘草さんに振り向いた。
「勿忘草さん!」
「はい。向日くん、分かっていますね?」
勿忘草さんの反応は冷淡とも思えるくらいに冷静だ。でも分かっている。僕は自分の力を試されている。ここで勿忘草さんの手を借りていたんじゃ、一人前とは認めてもらえない。
「やってみます」
僕は穂乃実ちゃんが濡れない様に、頭上に自分の傘を被せて、しっかり穂乃実ちゃんの手を取った。大丈夫だ。僕ならできる。やらないといけない。そう念じながら。
穂乃実ちゃんの手は熱を帯びている。「温かい」じゃなくて「熱い」。火傷しそうなぐらいだ。実際に熱がある証拠に、湯気が立ち上っている。それでも発火していないのは、雨が降っているからだろうか?
「穂乃実ちゃん! しっかりするんだ」
僕は屈み込みながら穂乃実ちゃんに呼びかけて、傘を持つ手でそっと頬に触れた。こっちも発熱している。熱い。
……反応は無い。目の焦点は定まらず、目の前の僕を見ていない。僕の中で焦りが生まれて、大きくなる。
「大丈夫、大丈夫だから……」
この時の僕は穂乃実ちゃんを助けたい一心だった。どうにか正気に戻したい。これが一人前と認められる試験的な事だとか、勿忘草さんの助けを借りるとか、そんな考えはすっかり頭の中から抜け落ちていた。
穂乃実ちゃんを助けたい。僕が何とかしないといけない。彼と同じ悲劇を繰り返してはいけない。もう誰も僕の前で苦しまないで欲しい。
僕は泣きそうになっていた。目頭が熱くなって、温かい水滴が頬を伝う。穂乃実ちゃんの手の熱も忘れるぐらいに目が熱い。堪らず目を閉じる。あの時の事は思い出したくもない。だけど、目を背けちゃいけない。確かに見詰めて、今を克服しないと。
僕は目を開けて、改めて穂乃実ちゃんの顔を見る。
穂乃実ちゃんはきょとんとした顔をしていた。その目は確かに僕を見ている。僕は正気に返れたんだと直感すると同時に、急に恥ずかしくなった。泣いている所を見られたくない。
僕はごまかす様に穂乃実ちゃんから手を離して、近くに転がっていた黄色い傘を拾い上げた。
「大丈夫? 傘、持てる?」
穂乃実ちゃんは小さく頷いて、黄色い傘を持つ。
何故か穂乃実ちゃんは僕の顔をジッと見詰めたまま、目を離さない。……そんなに見ないでくれ。僕だってみっともないと思ってるんだ。
「何をしたんですか?」
立ち上がった僕に、勿忘草さんが怪訝な顔をして聞いて来る。
何って言われても……。
「フォビアを使ったんだと思いますけど……」
「本当にフォビア?」
「他に何が?」
「いえ、それなら良いんですけど」
勿忘草さんの態度はどこかおかしい。引っかかる事があるみたいだ。
「はっきり言ってください」
「……穂乃実ちゃんが正気に戻って良かったですね」
話を逸らかされたと思って、僕はムッとした。でも、穂乃実ちゃんのいる前ではできない話なのかも知れない。短気を起こす前に、状況を鑑みて心を落ち着ける。
「もう帰りましょうか?」
勿忘草さんにそう言われて、僕は穂乃実ちゃんの顔色を窺う。全ては穂乃実ちゃんの心一つ。
穂乃実ちゃんは首を二度横に振った。それなら散歩続行だ。
僕達三人は雨の中の散歩を続ける。
穂乃実ちゃんは道端に少し目立つ花を見付けて、僕に聞いて来る。
「これ何?」
一本の茎の先端からいくつもの赤いラッパ状の花が咲いている。
僕は花に詳しい訳じゃないから何も答えられない。僕の人生で道端の花を注意して見る事なんて、そんなになかった。
無知な僕の代わりに勿忘草さんが答える。
「ユリズイセンだよ。どこかから種が飛んで来て、野生化したのかな?」
僕は勿忘草さんが即答した事に驚いた。物を覚える事が苦手そうなのに、園芸の趣味でもあるんだろうか? 名前も「勿忘草」だし。
その時、また救急車のサイレンが鳴った。穂乃実ちゃんは急に傘を放って、僕の左手を両手で握った。まるで助けを求める様に。繋いだ手を通して、穂乃実ちゃんの体の震えが伝わって来る。熱はない。寧ろ冷たい。
「大丈夫だよ、熱くない」
僕は穂乃実ちゃんを落ち着かせようと、できるだけ優しく言った。
徐々にサイレンの音が遠ざかって、その内に穂乃実ちゃんの震えは止まる。
……僕はフォビアを使っていないと思う。穂乃実ちゃんが自力でフォビアを抑えたんだ。
「よく耐えた。偉いぞ」
僕は素直に称賛した。穂乃実ちゃんは嬉しそうに笑って俯く。どうして下を向くんだろう? 誇っても良いと思うんだけど。照れているんだろうか?
僕は傘を首で支えて、転がっている黄色い傘を回収し、穂乃実ちゃんに渡す。そうすると穂乃実ちゃんは左手だけを放して傘を差す。……僕の左手と穂乃実ちゃんの右手は繋がれたまま。
あれかな? 芽出さんが言っていたみたいに、手が離れていると寂しさを感じてしまうんだろうか? まだ小さい子だから、そこは一層配慮しないといけないのかも知れない。ちょっと恥ずかしいけど、僕が我がままを言ってもしょうがない。
そんなこんなで僕達は十二時になるまで散歩した。穂乃実ちゃんは最後まで手を放してはくれなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます