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 翌日水曜日、午前十時。僕は芽出さんの部屋を訪ねる。チャイムを鳴らすと、今回も芽出さんと勿忘草さんが一緒に出て来た。


「向日くん、ありがとうね。付き合ってくれて」

「いや、気にしないでください。前にも言いましたけど、僕の訓練にもなるんで」


 僕が芽出さんの後ろの勿忘草さんにも視線を送ると、勿忘草さんはちょっと慌てた様子で、ぺこりと頭を下げる。


「宜しくお願いします」

「いえ、こちらこそ」


 僕達三人は三階の事務室に寄ってから、一階に降りる。

 エレベーターの中で僕は芽出さんに聞いてみた。


「買い物って、どこに行くんですか?」

「えっと、今日は……デパートと駅に行ってから、ホームセンターとスーパーに行く予定だね」

「そんなに買う物があるんですか?」

「そうじゃなくて、道を憶えるために行くの。知らない道は怖いけど、知ってる道なら怖くないからね」


 あー、そういう事なんだ。僕は納得して二度頷いた。


「それじゃあ、市内の道を完璧に憶えるまで、外出するって事ですね」

「そのつもりだよ。これから何十回も付き合ってもらうから、覚悟してね」

「ははは……」


 僕は愛想笑いで応える。しばらく退屈する暇は無さそうだ。僕は芽出さんの後ろにいる勿忘草さんにも聞いてみた。


「勿忘草さんも道を憶えに?」

「あ、はい。まあ、そうです」


 道に迷うフォビアと、ど忘れするフォビア。外出に向かない二人だから、きっとこういう機会をずっと待ってたんだろうな。



 今日の天気は曇りだけど、予報によると雨は降らないらしい。デパートまでは徒歩で一時間強。研究所が市の中心から外れているせいで、どうしても市内の主要施設に移動しようとすると、時間がかかってしまう。バスを使えば早いんだけど、できるだけ色んな風景を憶えてもらわないといけない。そのためには徒歩でゆっくり街を見て回るのが一番だ。


 芽出さんは今日も地図を片手に先頭を歩く。時々道に迷っては、地図を確認し直している。

 僕にできる事は、地図の読み方と現在位置を教えるぐらいだ。ただ道を間違えただけなら、僕は何も言わない。間違いに気付いて元のルートに戻る事も、道を憶える練習の一つだから。ちょっと迷ったぐらいで音を上げられては困る。本当に完全に迷うまで、僕が言う事は一つだけ。


「大丈夫ですよ。落ち着いて地図と周りを見比べてください」


 これでいいんだ。迷わない様にするんじゃなくて、迷っても動揺しない様にする。冷静さを失わなければ、フォビアが暴走する事もない。



 そんなこんなで二時間かけて市内のE百貨店に着く。もうお昼だから取り敢えず食事を取ろうという事で、一階の食堂へ。レストランや寿司屋、そば処の他にも色々ある中で、芽出さんが選んだのはお洒落なカフェだった。

 席に着いてみると、筆記体のローマ字で書かれたメニューがある。英語……イタリア語? それともフランス語だったりするんだろうか? 中学校の英語の成績は悪くはなかったんだけど、これは読めない。芽出さんと勿忘草さんは読めるんだろうかと思って、僕は二人の様子を窺う。

 芽出さんはメニューを開くと、すぐに女性の店員さんを見付けて呼ぶ。


「日本語のメニューをください」

「畏まりました」


 ……それで良いの? どんな罠だよ。ここは日本なんだから、最初から日本語のメニューを置いといてくれよ。

 店員さんは数分後に新しいメニューを持って来た。それを見て、芽出さんは日替わりランチを、勿忘草さんはオムレツを、僕はサンドイッチを頼む。

 シックな内装と音楽が、逆に僕の気分を落ち着かなくさせる。やがて注文した料理が運ばれて来た。

 量が少なく見えるけど、そういう所なんだろう。安くていっぱい食べられるのが良ければ、大衆食堂に行きなさいと。

 勿忘草さんが自分の注文した料理を忘れていたけど、そんなのは些細な事。僕達は大きなトラブルも無く、昼食を終えた。サンドイッチはおいしかった……けど、ちょっと物足りない。まあ空腹ではなくなったから良しとしよう。このお店で満腹になるまで食べる気はしない。


 カフェを出た後、僕は芽出さんに問う。


「次はどこへ?」

「デパートの中を見て回ろうかな」


 僕は黙って芽出さんに従った。

 そもそも僕はデパートに用事がある訳じゃない……けど、やっぱり芽出さんと勿忘草さんを二人だけにはできない。何となく小学校低学年の頃を思い出す。母さんの買い物に付き合わされる事があったけど、面白くはなかったな。

 芽出さんはエスカレーターで各階を移動しながら、時々勿忘草さんに尋ねる。


「レナはどこ行きたい?」


 それに対する勿忘草さんの答えは淡泊だ。


「私は特に無いかな。麻衣ちゃんの行きたい所に付いて行くよ」


 その言葉通り、勿忘草さんは芽出さんの少し後ろを歩く。僕は更に後ろだ。

 家具売場や服飾売場で、芽出さんと勿忘草さんはお喋りしながら、結局は何も買わずに出て行く事を繰り返す。店員さんが笑顔で近付いて来ても、「大丈夫です」の一言で撃退。迷惑なお客じゃないだろうかと、僕は一人で心配する。

 芽出さんと勿忘草さんは手なんか繋いじゃって、本当の姉妹みたいだ。迷うフォビアと忘れるフォビアの二人だから、そうしてないと不安なんだろう。

 僕は二人の邪魔になる気がして、ちょっと離れた場所で待つ。目を離すとどうなるか分からないから、常に二人が迷子にならない事を優先。保護者みたいな気分だ。

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