5
七階のロビーで僕と勿忘草さんは、空いている適当な席に向かい合って座る。
「えーと、私は何の話をしようとしていましたか……?」
いや僕に聞かれても困るよ。僕を呼び止めたのは勿忘草さんの方なんだし。
「フォビアの事じゃないんですか?」
「そう、フォビアの話でしたね……。帰り道、あなたが麻衣ちゃんのフォビアを無効化した時に思ったんです」
「違いますよ。僕はフォビアを使っていません。あれは本当に芽出さんが自分の力でフォビアを制御したんです」
「……まあ、それはどっちでも良いんです。私はその時の麻衣ちゃんの反応を見て、やっぱり……私のフォビアでは本当の意味で人を助ける事はできないんだと思ったんです」
「いや、そんな事は無いんじゃないんですか?」
勿忘草さんは自分のフォビアに自信を失くしているんだ。人の記憶を消すフォビアでは、誰も助けられないと卑屈になってしまっている。
僕は必死に頭を働かせて、勿忘草さんを励ました。
「どんなフォビアでも使い方ですよ。僕のフォビアは無効にするだけで、自分から何かを起こせる訳じゃないですし」
「私にも私にしかできない事がある。それは分かってます」
あっ、分かってるのか……。予想外に冷静な言い方で返されて、僕は余計な事を言っちゃったかなと後悔しながら、じゃあ何を言えば良かったのか考え直す。
だけど、僕より先に勿忘草さんが口を開いた。
「私が言いたいのは……つまり、私と麻衣ちゃんを宜しくという事」
「はい」
「それと……私がフォビアを失くしたら、後の事はお願いします」
「……はい」
勿忘草さんの言葉は、かなりの覚悟が込められた重い言葉だ。僕は勿忘草さんが「フォビアを失うくらいなら記憶障害が治らなくても良い」とまで言っていた事を憶えている。それを撤回した訳じゃないんだろうけど、フォビアを失う覚悟を決めたんだろう。
重苦しい沈黙が訪れる。
「えー、勿忘草さん……他には何か?」
「いいえ、それだけです」
「分かりました。じゃあ、失礼します」
「あっ……」
僕が帰ろうと背を向けた瞬間、勿忘草さんは小さな声を上げた。
何だろうと思って僕は振り返る。
「何ですか?」
「その……今日はありがとう」
「いや、お礼を言われる様な事じゃないですよ。寧ろ、お誘いを受けたのは僕の方な訳で。こっちがお礼を言う立場です」
「それでも」
「えーと、じゃあ……どういたしまして。こちらこそ、ありがとうございました」
僕と勿忘草さんはお互いに頭を下げ合う。何だか変な感じだ。嬉しそうに微笑む勿忘草さんに、僕は愛想笑いで応えた。
動物園で勿忘草さんがフォビアを発動させたのって、わざとだったんじゃないか? ――ふと、そんな考えが浮かんだ。僕のフォビアが実際どの程度なのか試したんじゃないかと。だって、勿忘草さんはフォビアを自分の意思で使えるみたいな事を言っていたのに、あんな事で急にフォビアが制御できなくなるって、普通じゃないよ。
僕が思うに、勿忘草さんも心のどこかでフォビアを克服したいと望んでいたんじゃないだろうか? 記憶障害に悩まされる日々から抜け出したいと。誰にだって忘れたい事はあるだろうけど、同時に忘れたくない事もあるんだ。だからって、都合の悪い事だけを忘れられるとしても、ろくな結果にならないだろう。嫌な事を忘れられないのは、同じ過ちを繰り返さないためなんだ。
もしかしたらフォビアを使いこなす鍵は、そこにあるのかも知れない。恐怖を乗り越えて、過去を乗り越える……。逃げるのでも忘れるのでもなく、立ち向かう事でしか道は開けないというのなら、僕は戦わないといけない。それが終わりのない戦いだとしても。
七階で勿忘草さんと別れた僕は、エレベーターで五階に降りた。そこで僕は幾草に動物園のお土産を渡しに行く。
506号室のチャイムを鳴らすと、すぐに幾草がドアを開けてくれた。
「おう、勇悟じゃないか! どうした?」
「今日、動物園に行ったからお土産を渡そうと」
「律儀な性格なんだな」
「そうでもない。つまらない物だけど」
「何?」
「クッキーだよ」
僕がお土産の入った袋を差し出すと、幾草は素直に受け取ってくれた。
「まあ、それだけ」
「おう、わざわざ悪いな。いつかお返ししないとなぁ」
「気にしないでよ」
無事に幾草にお土産を渡し終えた僕は、六階に戻る。
長い一日だった。エレベーターの中で、僕は大きな溜息を吐く。フォビアを使ったのもあって、疲れているのかも知れない。
明日は休みだし、今日は早めに寝てしまおう。
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