4
芽出さんが先導する帰り道、僕は勿忘草さんに話しかけられる。
「向日くん」
「何ですか?」
「あなたは私を助けてくれますか?」
「いきなり何を言うんですか」
困惑する僕に勿忘草さんは真顔で続ける。
「私はフォビアで多くの人を助けて来ました。忘れる事は幸せですよ。嫌な事も悪い事も、全部忘れれば幸せになれます。怒りも憎しみも悲しみも……」
僕には難しい話だ。本当にそれが幸せなのかも分からない。忘れれば全部無かった事にできるとでも言うんだろうか?
――だから、聞かずにはいられない。
「そうなんですか?」
勿忘草さんは遠い目をした。
「そう思っていたのに……」
重苦しい間がある。
先を歩いている芽出さんは慎重に地図を確認している。現時点では迷っている様子は無い。
勿忘草さんは改まって言う。
「私だったら、あなたも助けられます。あなたの苦しみも、私のフォビアで癒してあげられます」
それはどういう意味なんだろう? 彼の事を忘れさせてくれると言うんだろうか?
僕は小さく首を横に振った。違う、僕は彼の事を忘れたくない。僕の悲しみ、僕の苦しみ、僕の罪。
記憶を失った犯罪者は、罪を免れられるだろうか? そうは思わない。まして故意に忘れようというなら、それは卑怯な逃げだ。
「僕は忘れたくありません。勿忘草さんも、本当は色んな事を忘れたくないと思ってるんじゃないですか?」
「……忘れられない様にしてくれますか?」
勿忘草さんもいつかフォビアを失うんだろう。その時のために、僕にはできる事がある。自信は無いけど、それはやらない理由にならない。
「はい」
僕が真剣に頷くと、勿忘草さんは一瞬だけ口元に小さな笑みを浮かべて、大きな溜息を吐いた。それからぽつりと呟く。
「忘れないよ」
本当にできるのか、僕は少し不安になったけど、期待されている事は嬉しかった。
視線を前に向けると、芽出さんが足を止めている。
「芽出さん、大丈夫ですか?」
「大丈夫、大丈夫。まだ迷ってないからね!」
芽出さんは地図を見ながら強い口調で言う。
迷ったらフォビアが発動するから、皆で迷子になる。今のところ僕は道を把握できているから、芽出さんが迷っていないのは本当だ。ただ、この調子だと日没までに研究所に戻るのは無理っぽいかな……。
その内に日が暮れる。夜になると今まで知っていたはずの道でも、暗がりや街灯、ネオンの加減で全く知らない道に変貌する。暗いから地図も確認できなくなる。
僕の予想通り、芽出さんは迷った。明るければ迷わなかったんだろうけど。
僕も――そして多分だけど勿忘草さんも、正しい帰り道が分からなくなっている。
「あわわわ、あわわ……」
パニックになって「あわわ」って言う人、初めて見たよ。実際に言うんだな。
僕は立ち尽くしている芽出さんの手をそっと取る。焦りと恐怖で小刻みに震えているのが分かる。
「大丈夫ですよ。落ち着いてください」
同時に自分のフォビアを意識したけど、すぐに芽出さんの震えが止まった。
僕もここがどこか把握できる様になっている。だけど……僕はフォビアを発動させていないはずだ。自覚が無いから正確な事は分からないけど、明らかに今までフォビアを使った時とは感覚が違う。
「ありがとう、向日くん」
「いや、違いますよ。僕じゃないです」
僕は慌てて否定した。
「だったら、レナ……でもないか」
芽出さんは小首を傾げながら勿忘草さんに目を向けたけど、勿忘草さんも首を横に振る。
不思議そうな顔をする芽出さんに、僕は推測だけど自分の考えを言った。
「自力で立ち直ったんだと思いますよ」
「えー? 本当?」
「……多分」
「そこは『絶対』って言おうよ」
芽出さんの脱力した笑顔に、僕もつられて笑う。
フォビアは心の在り様だ。恐怖心を失えば、フォビアも弱まる。今、芽出さんは一人じゃない。困っても助けてくれる人がいると分かっているから、フォビアに振り回されない……って事だと思う。
「もう暗いですから、地図も見難いでしょう。僕に付いて来てください」
「大丈夫? 道分かる?」
「大丈夫ですよ。地元なんですから」
僕はなるべく明るい大きな道を選んで、研究所に帰る。
研究所に着いたのは午後六時。三人一緒にエレベーターで六階に上がり、ここで僕と芽出さんは勿忘草さんと別れる……はずだったんだけど、僕だけ勿忘草さんに呼び止められた。
「向日くん」
「はい」
「お話があります」
「何でしょう?」
芽出さんはエレベーターの「開」ボタンを押したまま、待ってくれている。
でも勿忘草さんは先に芽出さんに向かって言った。
「麻衣ちゃんは先に帰ってて。向日くんと二人で話したいの」
フォビアの話だろうかと僕は思ったけど、芽出さんは凄いショックを受けた顔をしていた。
そんなに驚く事か? 僕は疑問に思いながらも芽出さんに言う。
「フォビアの話だと思いますよ」
「あー! そう、そうだよね」
芽出さんは全然思いもしなかったって反応だけど、寧ろ他に何があるんだろう?
僕と勿忘草さんは芽出さんと別れて、七階のロビーに移動する。
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