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 芽出さんの先導で行く動物園までの道程は、ちょっとしたトラブルの連続だった。

 芽出さんが道を間違えた回数は五回。未遂も含めれば、十回を優に超える。その度に僕が地図を確認して正しい道を教えた。そうしないと芽出さんのフォビアが発動してしまうからだ。

 勿忘草さんも時々自分を見失っていた。思い詰めた顔で「どこへ向かっているんでしたっけ?」と聞かれた時は、愕然としてしまった。

 順調に行けば一時間足らずの遠足のはずが、一時間半もかかった。結果的には何事もなく動物園に着いたけれど、僕は動物園を楽しむ前から、すっかり疲れてしまっていた。


 無事に動物園に入園できて、やれやれと大きな溜息を吐く僕に、勿忘草さんが声をかけて来る。


「どうしました? 大丈夫ですか?」

「いえ、何でもないです……」


 僕は再び脱力する。「あなた達のせいですよ」と言いたかったけど、せっかくの楽しい遠足の雰囲気を壊すのも悪いから、ここは抑えておく。

 勿忘草さんは本気で溜息の意味が分からないんだろう。忘れるという事は、ある意味では幸せなんだと思う。

 でも芽出さんは察していたみたいで、僕に謝って来る。


「ゴメンね、向日くん」

「良いですよ、そんな。つまらない事は忘れて、今日は楽しみましょう」


 我ながら大人な事を言ったと僕は自分自身に感心した。よくもこんな見えっ張りなセリフが言えたなと恥ずかしくもなる。

 ああもう、ごちゃごちゃ考えるのはやめよう。有言実行だ。僕もつまらない事は忘れてしまおう。


 それから僕達三人は揃って動物園を一周した。園内は迷子になる様な複雑な構造にはなっていないし、園内マップも案内看板もあるから迷いはしないだろうけど、この三人でバラバラで行動するのは怖過ぎる。平日でも人は多いし、こんな所でフォビアが発動してしまったら、大混乱は必至だ。

 動物園を移動中、勿忘草さんはスマートフォンで写真を撮りまくっていた。ここは県内最大の動物園だからメジャーな動物は大体いるんだけど、動物だけじゃなくて僕達の姿も写真に収めていた。曰く、大切な思い出を忘れないために、記録しておかないといけないらしい。

 そう話した時の、勿忘草さんの控えめだけど嬉しそうな顔が、強く印象に残った。記憶障害を持つが故のフォビアだから、ある程度の不便さは受け入れているんだろうけれど……それを悲しく思うのは、僕の独善なんだろうか……?


 一通り動物を見て回った僕達は、園内のレストランで昼食を取る。動物園のレストランという事で、名物は動物カレーだ。これはカレーのルーとライスで動物を描くという物で、ライオンだったりキリンだったり何種類かある。

 勿忘草さんはカレーの写真も撮っている。インスタ映えとか気にするのかなと思ったけど、SNSはやってないらしい。

 カレーを食べ終えた後、僕は芽出さんに尋ねた。


「午後の予定はどうしますか?」

「十五時からポニーのイベントがあるみたい。それが終わったら帰ろっか」


 そうなると研究所に戻るのは、午後四時ぐらいになる。帰り道で少し迷っても――いや確実に迷うだろうけど、それでも暗くなる前には帰れそうだ。


 午後の動物園巡りも三人一緒だった。芽出さんも勿忘草さんも逸れたら迷子になりそうだし、放っておけない。じゃあ二人が一緒なら大丈夫なのかと言うと、そういう訳でもない。僕は完全に保護者の気分だった。


「ところで、二人はどこか行きたい所とか無いの?」


 さっきから先頭を歩いていた芽出さんが、それとなく僕と勿忘草さんに振り向いて聞いて来る。


「僕は特には……」


 僕はそう答えて勿忘草さんを見る。勿忘草さんは何かを言おうとしていたみたいだったけれど、思い直したのか何も言わなかった。

 芽出さんは眉を顰める。


「遠慮しなくて良いんだよ? それとも、もう飽きちゃったかな?」


 僕と勿忘草さんは同時に首を横に振る。


「そんな事は無いですよ」

「あのね、麻衣ちゃん、私あれが見たい」


 あれって何だろうと、僕と芽出さんは勿忘草さんの言葉を待つ。だけど勿忘草さんは困った顔をするばかり。もしかして思い出せないのかな?


 数秒の間が空く。

 ……ん? 僕は何を待っていたんだろう? 勿忘草さんが……何だっけ? ど忘れしてしまった。


「芽出さん」

「どうしたの?」

「いえ、その……何をしようとしていたか、ど忘れしてしまって」

「向日くんも? 私も何かしようとしていたんだけど……全然思い出せない。何の話をしていたんだったかな?」


 僕も芽出さんも何かを忘れている。それが何かも思い出せない。おかしいなと思っていると、勿忘草さんが青ざめた顔をしている事に気付く。

 僕達の周りにいる人達も、口々に「あれ?」「何だっけ?」と何かを忘れている様な事を言う。異様な雰囲気を感じる。これは……フォビアだ! 勿忘草さんのフォビアが発動している!

 あちこちから子供の泣き声が聞こえて来た。不安が伝染しているんだ。不安な心が更に不安を呼んで、泣いていない子供達まで巻き込み始める。

 大人達はどう対処して良いか分からない。自分の子供のあやし方も忘れている。

 これが勿忘草さんのフォビア! このままだと動物園が大混乱に陥ってしまう!

 そう思った僕は、勿忘草さんの肩を揺する。


「勿忘草さん、しっかりしてください!」

「しっかり……何を?」


 勿忘草さんは目の焦点が定まっていない。

 気の抜けた勿忘草さんの顔を見ていると、更に記憶が曖昧になりそうだ。早く何とかしないと。僕の中で焦りが大きくなる。今こそ無効化のフォビアの使い時なんだ。

 僕は必死にイメージする。僕にできる事、僕でなければできない事、僕が本当にやりたい事……。


 勿忘草さん、僕はあなたを悲しまずにはいられない。あなたはずっと記憶障害を抱えたままで、本当に良いと思ってるんですか? 僕の独善でも良い。今だけはあなたのフォビアを封じます。


 僕のフォビアが発動したのか、勿忘草さんは小さな声を上げた。


「あっ、思い出した……」


 僕と芽出さんは改めて勿忘草さんに注目する。


「麻衣ちゃん! 私、レッサーパンダが見たい」


 僕も芽出さんも同時に「あっ」と声を上げた。そうだった。どこに行きたいかって話をしていたんだ。思い出したぞ。

 僕達の周りでも、「そうだ」とか「思い出した」と言う声が聞こえる。子供達は大人にあやされて一人また一人と泣きやむ。

 勿忘草さんのフォビアは完全に無効化されたんだろう。良かった。

 芽出さんが明るい声で、勿忘草さんに言う。


「そうならそうと遠慮しないで言ったら良いのに。レナは恥ずかしがりなんだから」


 僕達は三人揃ってレッサーパンダを見に行った。芽出さんも勿忘草さんも、途中でフォビアの話は一切しない。もしかして……僕しかフォビアの発動に気付いていなかったとか?

 気になるけど、つまらない事は忘れよう。たった数分間の小さな異変だ。今日は動物園を楽しみに来たんだから。

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