忘却のフォビア

1

 そして迎えた月曜日、カウンセリングの前に日富さんは僕に言った。


「そうそう、例の件ですが、認められましたよ」

「ああ、それは良かったです」

「但し条件があります」


 僕が安心してホッと息を吐くと、日富さんは透かさず付け加える。

 僕は緊張して返事をした。


「はい」

「適度に休みを入れる事、疲れたら無理をしない事。具体的には、一日訓練したら一日休みを入れてください」

「分かりました」


 僕が素直に頷くと、日富さんはいやらしい笑みを浮かべる。


「本当に分かっているんですか? ちゃんと断れますか?」

「大丈夫です、分かってます」


 僕が人の頼みを断れないとでも思っているんだろう。その時になってみないと分からないけれど、そう無理を言って来る人はいない……はずだ。


 それから僕はいつもの様にカウンセリングを受けた。

 僕の心を読み終えた日富さんは、またもいやらしい笑みを浮かべる。


「もう約束を取り付けていたんですね。手が早いと言うか、何と言うか」


 ちょっと呆れた風な日富さんに、僕は反論する。


「僕は僕にできる事をしようと――」

「ええ、分かっていますよ。楽しんで行ってください」


 でも僕が最後まで言う前に軽くあしらわれてしまった。

 心を読める日富さんは、本当の意味で僕の事を全部分かっているはずだから、誤解されない様にあれこれ言い繕おうとしても無意味だ。本心を知られている以上、僕の言葉は体裁を保つための表面的な言い訳に過ぎない。……そうスパッと割り切れたら良いんだけど、まだ言い足りない気持ちがある。

 僕の内心の不満を読み取ったのか、日富さんは小さく笑って言った。


「女性経験を積むのも人生の大事な勉強ですからね」


 だから、そんなつもりじゃないってのに。



 カウンセリングが終わって、九時半。僕が自分の部屋に戻ると同時に、ポケットの中の携帯電話が鳴る。芽出さんからだ。


「向日くん、例の件だけど」

「はい、大丈夫ですよ。許可はもらえました」

「そう? 良かった。じゃあ約束通り十時にね」

「はい」


 電話を切って、僕は日富さんの言葉を思い出す。

 女性経験? これってデートなんだろうか? いや、芽出さんにとって僕は年下だから、そういう対象にはならないだろう。余計な事は意識しない方が良い。


 約束通り、僕は十時に芽出さんの部屋を訪ねる。チャイムを鳴らすと、軽い返事と共にドアが開いて、芽出さんと勿忘草さんが出て来た。

 僕は驚いて、芽出さんに聞く。


「勿忘草さんも一緒に外出するんですか?」

「そうだよ。私が誘ったんだけど……都合が悪かったかな?」

「いや、不都合は無いですけど」


 二人のフォビアを同時に無効化できるか、僕は不安だった。

 気が進まない僕を見かねてか、芽出さんは僕に言う。


「大丈夫。レナは私よりフォビアを制御できてるから」


 勿忘草さんのフォビアは、一時的に記憶を消すんだったかな? それでフォビアの発動を止める事もできるって話だった。芽出さんの迷子になるフォビアも無効にできるんだろうか? でも、散歩するには二人のフォビアは最悪の相性じゃないか?

 心の中であれこれ考えている僕に向かって、勿忘草さんは小さく頭を下げる。


「今日は宜しくお願いします」

「いえ、こちらこそ」


 明るい色合いの服装の芽出さんと、落ち着いた色合いの服装の勿忘草さんは、全く対照的だ。今日の芽出さんは、青いハーフパンツにボーダーシャツと、身軽な格好。一方で勿忘草さんは、灰色のロングスカートにブラウンの上着。性格も活発そうな芽出さんと大人しそうな勿忘草さんでは、対照的に思えるけど……二人は仲が良いんだろうか?


 僕達は三人でエンレベーターに乗って、一階に移動する。

 事務室には芽出さんが事前に外出届を提出していたらしい。予定がダメになってしまった場合はどうするつもりだったのか僕は聞いたけれど、芽出さんの答えは「どうもしないよ」だった。そんな小さな手間を惜しんで何になるのかって。芽出さんの快活さというか積極性は、そういう所から来ているんだろう。


 エレベーターの中で芽出さんは、H市のタウンマップを広げながら言った。


「今日の目的地は動物園ね」

「運動公園より遠いですけど、大丈夫ですか?」

「今度は地図もあるし、大丈夫だよ」


 芽出さんはやけに自信を持っている。勿忘草さんも頷いて同意しているけど、本気でそう思っているのか? 僕は今一つ信用し切れない。


 そうこうしている内に、エレベーターは一階に着く。

 ビルの外に出た芽出さんは、大きく伸びをした。僕は芽出さんが伸ばした手の指の先から、空を見上げる。今日は少し雲が多いけど、晴れには変わりない。天気予報でも雨は降らないと言っていた。


「よし! 出発進行!」


 地図があるからか、芽出さんは強気だ。進路を指さし確認して、元気に歩き出す。何事もなく動物園に着けば良いんだけど……。

 芽出さんは歩きながら僕に言う。


「私、フォビアがあるから今まで自由に外出できなかったのね。すーぐ迷子になっちゃうし。だから今すっごく嬉しいの。自由だぁーって感じ!」


 勿忘草さんも相槌を打つ。


「私も。ずっとビルの中で生活してたから……お出かけできて、ワクワクしてます。動物園、楽しみです」


 知らなかった。芽出さんも勿忘草さんも、フォビアのせいでそんなに不自由していたなんて。僕が来るまで、二人はろくに外出もできなかったのか……。それなら今の僕は二人の役に立てているんだろう。その事が何より嬉しい。

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