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 僕は芽出さんの後に付いて、運動公園を出る。久遠ビルディングに戻るまで、芽出さんはフォビアを発動させずにいられるんだろうか?

 僕が心配していると、運動公園前の交差点でいきなり芽出さんが足を止めた。


「……研究所に帰る道はどっちだったかな?」


 いやいや、早過ぎるよ。これはフォビアじゃなくて素で道が分からないのかな?

 僕も道が分からなくなっている訳じゃないから、多分そうだ。


「左ですよ」


 僕が答えると、芽出さんは照れ臭そうに笑う。


「ああ、そうそう! そうだったね!」


 フォビアだけじゃなくて方向音痴も治さないと、一人旅なんかできないと思う。


「あの、芽出さん? もしかして、この辺の地理を知らないとか?」

「そうなの。生まれも育ちも違うし、外を出歩かないから余計にね」


 それなのに帰れると思ったのか……。無謀な事を――いや、無謀ではない……か? ちょっと距離が長いかも知れないけれど、一度来た道を戻るくらいはできたっておかしくないよな。


 それから芽出さんは辺りを見回しながら、街の中を歩き回る。途中から明らかに道を間違えていたけど、僕は何も言わなかった。困ったら芽出さんの方から助けを求めて来るだろうし、僕は正しい道を把握できていたから。



 そして……芽出さんは道に迷った。どうしてこんなに道を間違えられるのか不思議なくらいだ。さっきから同じ場所を何度もぐるぐる回っている。

 ……同時に僕も正しい帰り道を見失っていた。これは多分フォビアだな。

 芽出さんは大きな交差点で足を止めて、僕に助けを求める。


「向日くん、助けて」


 芽出さんの声は震えていた。道が分からないという恐怖は、僕が想像していたより深刻なんだろう。その人にしか分からない恐怖。分かってもらえない恐怖。


 僕は……僕は今まで自分のフォビアを恐怖心で発動させていた。最初にフォビアを使った時も、今までも、ずっと。何もできない恐怖、何もできなかった恐怖。

 フォビアとは恐怖症の事、恐怖するからこそ超能力としてのフォビアが生まれる。ただそれだけの能力だと思っていた。

 だけど……今の芽出さんを見て、僕は心の底から何とかしてあげたいという感情を抱いた。

 今までとは違って、恐怖心に衝き動かされた訳じゃない。僕は初めて、人のためにフォビアを使う。


 芽出さんのフォビアを無効化しても、芽出さんに今まで無かった土地鑑が急に備わったりはしない。だから芽出さんは道に迷ったままだ。

 僕は決意して、困って動けない芽出さんの手を取った。


「こっちです」


 僕には正しい道が見えている。


「本当に? 本当にそっちで合ってる?」

「大丈夫です」


 あの時、

 今、。僕でなければできない事。これから。僕が本当にやりたい事。

 ――どうして僕のフォビアが発動したのか、本当の事は分からない。だけど、僕の中では過去と今と未来が一つになっている様に思えた。



 街並みの向こうに、ウエフジ研究所のある久遠ビルディングが見える。

 この道で合っていると僕は確信を持って、芽出さんに言う。


「芽出さん、向こうです。見えますか?」

「何? どこ?」

「ビルですよ。僕の指の先、ずっと向こうに見えるでしょう?」

「あっ、ホントだ」


 芽出さんは安心して顔を綻ばせる。その目はちょっと涙ぐんでいた。

 大袈裟だなと僕は思ったけど、当人にしてみたら怖かったんだろう。


「ありがとうね、向日くん!」


 感極まった芽出さんは僕にぎゅっと抱き付いて来た。

 お化粧の良い匂いがする。僕はどぎまぎして立ち尽くしていた。芽出さんは僕よりちょっと背が高いから、胸の膨らみが肩の下の辺りに当たる。……誓って、いやらしい気持ちはない。

 芽出さんはすぐに僕から離れて、今度は逆に僕の手を引いて歩き出す。

 ここまで来れば、もう迷う事は無いだろう。遠くに見えるビルに向かって、真っすぐ歩くだけだ。目指す所が見えていれば、何も恐れる事は無い。


 それからも少しだけ道を間違えたりしたけれど、芽出さんはちゃんと自力でビルまで戻って来た。

 僕からの助言は「大丈夫ですよ」の一言だけ。他には何も言わなかった。言う必要が無かった。


 ビルのエレベーターの中で芽出さんは僕を見てぽつりと言う。


「今日はありがとうね」

「いや、そんな……こちらこそフォビアの練習に付き合ってもらって」

「あ、そうだったね。すっかり忘れてた」


 芽出さんは恥ずかしさをごまかす様に「へへへ」と小さく笑った。


 エレベーターが六階に着いて、僕と芽出さんは同時にエレベーターから降りる。

 603号室の前で、芽出さんは別れ際に僕に微笑みかける。


「本当にありがとう。楽しかったよ」

「どういたしまして。こちらこそ、ありがとうございました」

「また誘ってくれる?」

「はい。お願いします」

「そうだ! 電話番号、交換しよう」

「あ、そうですね」


 僕と芽出さんは電話番号を交換した後、和やかな雰囲気で別れる。


「またね」

「はい」


 今日は疲れた。でも、好い気分だ。

 初めて人のためにフォビアを使った。人のためにフォビアを使えた。この事はきっと大きな一歩になる。いや、大きな一歩にしないといけない。


 ……自分の部屋に帰った僕は、ベッドに倒れ込んで、そのまま夕方までぐっすり眠ってしまった。一日に二度フォビアを発動させるのは、きつかったのかも知れない。でも後悔はしていない。もっと使い慣れないと。

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