3

 初夏の清々しい風と陽気に僕がうとうとしていると、手の甲にピタリと冷たい感触がある。驚いて目を開けると、芽出さんがペットボトルのスポーツドリンクを持っていた。


「はい、これ」

「済みません。ありがとうございます」

「お疲れだったみたいだからね」


 僕は差し出されたペットボトルを受け取ると、すぐにキャップを開けて飲む。甘くておいしい。冷たい水が疲れた体に沁み渡る。

 芽出さんは心配そうに僕の顔を覗き込んで尋ねて来た。


「そんなに疲れた? 寝不足、それとも運動不足かな?」

「運動不足もあるかも知れませんけど、多分フォビアの影響だと思います。僕のフォビアはコスパが悪いみたいで」

「そうだったんだ……何かゴメンね」

「いえ、気にしないでください。コスパ悪いのも改善しないといけないんで」


 フォビアを使った後に疲れ切って眠ってしまうのは、本気でどうにかしないといけない。一度使っただけでダウンしていたら、何度もフォビアを使える人や、複数の人が相手だと役に立たない。体力や持久力みたいに、使い込めば鍛えられるなら良いんだけど、そうだという確証も無い。

 僕が真剣に考えていると、芽出さんが僕の頭をそっと撫でた。


「眠かったら寝ても良いよ。私が見守っててあげるね」

「いや、大丈夫です、大丈夫です。もう眠気は覚めましたから」


 僕は恥ずかしくなって必死に拒否した。小さな子供じゃないんだから、こういう扱いは困る。

 これ以上、特に運動公園に用がある訳でもないから、僕は芽出さんに言った。


「そろそろ帰りましょう」

「えっ、もう?」

「何か用事がありますか?」

「ちょっと遊んで行こうよ。せっかく外出したんだからね」


 そう言われても……運動公園で何をして遊ぼうって言うんだろう? 運動公園だから当然スポーツができる施設はあるんだけど、そういうのって予約制だし。滑り台やブランコで遊ぶ年齢としでもないし……。

 気乗りしない僕に構わず、芽出さんは僕の手を引いて、公園の遊具に向かう。

 丸太杭が何本も地面に刺さっている場所で、芽出さんは足を止めた。


「見ててね。よっ、とっ、はっ、てっ、それっ」


 芽出さんは丸太杭渡りで見事なバランス感覚を披露した。高さの違う丸太杭の狭い足場を片足ずつで、それもスカートを穿いた格好で渡るんだから、見ている方が危なっかしくて怖い。靴も運動向きには見えないのに。

 そんな事はお構いなしに芽出さんは丸太杭を渡り切って、僕に手を振る。


「向日くん!」


 これは僕もやらないといけないんだろう……。こういう遊びは長らくやっていなかったから、ちゃんと渡り切れるか心配だ。小学校以来だろうか? 足場が妙に狭く感じてしまう。


「たっ、くっ、おっ、あっとっとっと……」


 僕は丸太杭を四つ渡った所で、バランスを崩して落っこちる。それでも足から着地するぐらいの余裕はあったけど、今まで引きこもっていた代償だろう。運動能力が下がっている。このままじゃカッコ悪いので、僕はもう一度丸太杭渡りに挑戦した。


「がんばって!」


 芽出さんの声援を受けて、僕は何とか丸太杭を渡り切る。


「やったね!」


 芽出さんは笑顔で僕を迎えてくれたけど、そんなに嬉しくはない。このぐらいはできないと恥ずかしい。昔はもっと簡単にできていたんだから。


 続いて芽出さんは平均台に移動した。

 全くバランスを崩さない芽出さんを見て、僕も後を追って平均台を渡りながら問いかける。


「芽出さんは、何かやってたんですか?」

「何かって、何?」


 芽出さんは平均台の上でくるりと180度回って、僕の顔を見ながら後ろ向きに歩き出す。運動神経が良いってレベルじゃないぞ。


「……体操とか」

「当たり。よく分かったね。中学の時に少しだけ。スカートじゃなかったら、ここで宙返りしてみせてあげるんだけどね」


 僕と芽出さんは平均台を渡り切って、少し休憩。

 芽出さんは木の柵に腰を下ろして、遠い目をして言った。


「フォビアが無かったら、今頃どうしていたかなって、時々思うんだよね。受験とか就活とか、面倒な事もいっぱいあったとは思うけど」

「体操の選手になっていたかも知れませんね」

「フフ、そうだね。そんな未来もあったかもね」


 芽出さんは自分のフォビアを良くは思ってないんだったっけ。フォビアを失くしたら旅に出たいって言ってたし。もしかしたら僕のフォビアを利用して、自分のフォビアを失くそうと考えているんだろうか?

 僕も手伝えれば良いと思うけど、無効化は一時的だから根本的な解決にはならないんじゃないだろうか……。


 芽出さんは僕に視線を戻して言う。


「お昼が近いし、もう帰ろうか?」

「はい、そうしましょう」


 もう話す事は無いんだろうか?

 僕も運動公園に長く留まる気は無かったから、素直に頷いた。

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