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 僕と芽出さんは久遠ビルディングを出て、市街地に向かう。今日はよく晴れたお散歩日和だ。

 僕にとって、この近辺は歩き慣れた土地だから、本来なら迷わないはず。僕が引きこもっていた数か月で、街の地形が大きく変わったという事も無いだろう。

 最初の問題は芽出さんのフォビアが発動しても、無事に中央公園に着けるか……。ちゃんと無効化できればいいんだけど。


 僕は芽出さんと並んで道路を歩く。……どうしても人目が気になる。大人の女の人と二人って、第三者からはどんな風に見えるんだろう? 恋人って感じではないと思うけど。姉弟かな……?

 いやいや、僕が気にしてもしょうがない。そんな事より……中央公園までは徒歩で約二十分。交差点をいくつも渡らないといけないけど、特に迷う様な地形ではない。芽出さんのフォビアが発動しなければ。


 出発から約五分、そろそろ道路の周辺に建っている民家の数が増え始める。

 振り返ってみると、ウエフジ研究所がある久遠ビルディングの立地は特殊だ。

 普通、ビルという物は街の中心部に建てられる。横に拡げられないスペースを縦に拡げるためだ。ビルの発展は街の発展と共にあり、郊外から中心部に行くに従って、ビルは高く密集する。そう社会の先生が言っていた。


 ……短時間ではあるけれど、僕の思考はフォビアの事を忘れていた。今どこを歩いているのか、現在位置はどこなのか意識していなかった。

 普通は意識しないんだ。そんなに頻繁に通る道じゃないけど、見知らぬ土地って訳でもない。少し目を逸らしたぐらいで、ここがどこだか分からなくなる事なんて……あり得ないはずだった。


 でも、僕は見慣れない景色に驚いていた。「こんな所があったかな?」と心の中で自問する。懸命に周囲を見回して、何とか見覚えのある物を探そうとする。

 電柱の配置、道路の形、案内看板、遠景の山、街路樹、建物……やばい、どれも見覚えが無い。看板に書かれている「単語」には見覚えがあるけれど、デザインが変わってしまったみたいだ。

 僕は隣の芽出さんの様子を見た。芽出さんは口元に意地の悪い微笑みを浮かべて、僕に言う。


「どうしたの? 運動公園に連れて行ってくれるんだよね?」


 これが芽出さんのフォビアなんだ。知っているはずの道も分からなくなる。今こそ無効化のフォビアを使う時だ。

 僕は深呼吸をして、過去に思いを馳せる。


 ――僕と彼は学校の外では普通に一緒に遊んでいた。いじめが酷くなって、彼が不登校になってからも。僕達は学校から離れた市内の繁華街に何度も通った。まだ中学生だった僕達にとって、学校の中と外は別世界だった。学校の中には逆らい難い嫌な空気が充満していた。あれが閉鎖的な環境で皆を狂わせていたんだろうか?

 学校の外では彼は楽しそうにしていたけれど、心の中でどれだけ苦しい思いをしていたのか、僕は察する事ができなかった。高校に入って中学の顔見知りがいなくなってしまえば、問題は解決すると思っていた。もしかしたら新天地を望んでいたのは、僕だけだったのかも知れない。彼は本心では、転校生が来る以前の生活を取り戻したかったんじゃないだろうか……。

 彼が逃避よりも戦いを望んでいたとしたら、逃げる事ばかり考えていた僕は何だったんだろう?


 涙が頬を伝う。目を開けば、そこは見知った場所だ。僕は服の袖で涙を拭った。今どこにいるのかもはっきり分かる。この道を真っすぐ進んで、そしたら大きな交差点があるから右に曲がって、そこからまた道なりに進めば運動公園だ。


「大丈夫?」


 心配そうに問いかけて来た芽出さんに、僕は力強く頷いて見せる。


「大丈夫です。行きましょう」


 足取りに迷いは無い。尽きない後悔を胸に、僕は僕の道を歩いて行ける。

 ……でも、正直しんどかった。



 運動公園に着いた僕と芽出さんは、広場のベンチで休憩した。

 公園の芝生の上には幼い子供とその両親の姿がぽつぽつ見える。歩道を散歩をしている老人達もいる。空は変わらず晴れていて、風も穏やか……平和で結構な事だ。

 僕は小さく溜息を吐いた。

 ちょっと疲れた。身体的にも精神的にも。やっぱり、一回でもフォビアを使うと、かなり消耗してしまう。

 ぐったりしていた僕に、芽出さんが話しかけて来る。


「本当に無効化するなんて……」

「え?」

「あのね、私のフォビアを無効化するとは思わなかったなーって」

「そうですか?」

「帰り道は私が先に歩いても良いかな?」

「良いですよ」

「帰りでも……また迷ったら無効化してくれる?」

「はい」


 僕はくたくたで頭がよく働いていなかったけど、芽出さんが嬉しそうだったから、これで良いんだろうとぼんやり思った。

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