訓練中止

1

 翌日、木曜、朝六時。僕は朝食を取りに一階の食堂に向かう。

 いつもの定食を頼んで席を見回すと、由上さんがいた。屋内でもサングラスをしているから、とても目立つ。

 僕は由上さんに挨拶して、隣に座る。


「おはようございます」

「ああ、向日くんか」


 由上さんの横顔をちらりと見ると、サングラスの隙間から閉じた目が見えた。誰もいなくても目を開けないんだろうか? 目を閉じているはずなのに、食事をする由上さんの手の動きはスムーズで、目が開いているのと全く変わらない様だ。

 僕の視線に気付いたのか、由上さんは途中で手を止めて僕に尋ねる。


「どうかしましたか?」

「いや、その……本当に見えなくても平気なんですね」

「ははは、何事も慣れですよ」


 目を閉じていても視線って感じるんだろうか……?

 余り好奇心で凝視するのも失礼だと思った僕は、箸を取って定食に手を付ける。

 それとほぼ同時に、背後から幾草の声がした。


「よう、勇悟――あ、衛だったけか?」

「どっちでも良いよ」

「どっちでも良いって事はないだろ」


 幾草は笑いながら僕の左隣に座る。


「幾草の呼び易い方で良い」

「本当か? 勇悟って呼ぶぞ?」

「良いよ」


 幾草が置いたトレーを見ると、相変わらず朝はパンを食べている様だ。


「毎日パンで飽きないか?」

「いや全然。そっちこそ」

「……まあ、そうだな」


 いつも白いご飯を食べている僕が言えた事じゃない。

 僕と幾草が話していると、由上さんが席を立つ。


「それじゃ、向日くん。僕はこれで」

「あっ、はい」


 食べ終わったにしても、席を立つのが早い。会話の邪魔になると思ったのかな?

 僕が由上さんを見送っていると、幾草が横から話しかける。


「あの人、知ってるのか?」

「ああ、由上さんだよ。幾草は知らない?」

「寮の人は余り……」

「意外だな。年上は苦手とか?」

「そんなんじゃなくて……いや、そういうのも無くはないけど、何より恐怖症の人との接し方が分からないって言うか……」

「あー、成程。顔合わせで自己紹介とかしなかったんだ?」

「俺は恐怖症とか持ってないしなー」


 分かる気がする。僕もフォビアの紹介をされなかったら、どう接して良いか分からなかっただろう。フォビアの人達も自分のフォビアを進んで明かしたりはしなかっただろうし。幾草はフォビアじゃないから尚更だ。



 午前九時、僕はカウンセリングルームで日富さんに心を読んでもらう。心を読んでもらうのは相変わらず緊張するけど、今日は嫌な感じはしなかった。もう慣れてしまったのか、今日だけ特別なのか、どっちだろう?

 僕の中に昨日の訓練でどれだけ苦しい思いをしたのか、分かって欲しい気持ちがあるのかも知れない。

 いつもみたいに椅子に座って、目を閉じて、手を置かれて、気持ち良くなる。

 その後、日富さんは僕に言った。


「……向日くん、ちょっと話があります」


 深刻そうな表情と声で言われたから、僕はドキッとする。何か悪い事でもあったんだろうか?

 僕は椅子の背もたれから体を起こして聞く。


「何でしょうか?」

「あなたのフォビアについて」

「はい」

「あなたのフォビアは、あなたの負の感情によっても発動する様です」

「負の感情?」

「一つは『悔しさ』。『悔しい』という感情は、現状の自分では解決できない問題と同時に生じます」


 悔しいと思ったらフォビアが発動する? ちょっとよく分からない。


「もう一つは『焦り』。『どうにもならないけど、どうにかしたい』、『今すぐ何とかしなければいけない』という気持ちが、深く関わっています。どちらもあなたの無力感と深く結び付いています」


 冷静に心理状態を分析されて、僕は恥ずかしく思うよりも、ただ感心する。「どうにもならないけど、どうにかしたい」って気持ちが、僕のフォビアを目覚めさせた? そんな漫画の主人公みたいな条件で発動するんだったら、本当に良いんだけど。

 でも、よく考えたら自力で何ともできないって事が大前提になるんだよなぁ……。自分で制御できない様な物事に対しては有効なんだろうけど、逆に言うと安全な状況では発動しない訳で。


「あなたの精神の安定のためにも、余り無理な訓練はやらせない方が良いのかも知れません。午前中は待機していてください。訓練の内容を計画し直して、午後までに連絡します。私の電話番号を教えておきますね」


 日富さんは白衣のポケットから携帯電話を取り出す。僕も上着のポケットから携帯電話を取り出して、日富さんと番号を交換した。

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