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 僕は息ができない状態でも、できるだけ心を落ち着けて自分のフォビアを発動させようと試みる。不意打ちだったから、長くは持たない。そもそも息を止める時間なんか計った事がないから、何秒までなら平気なのかとかも全然分からない。小学校の水泳の時間に、遊びでやったぐらいか? その時は一分も持たなかった気がする。とにかく急がないといけない。早くしないと窒息死……するまでには止めてくれるだろうけど、苦しいのは嫌だ。

 きつく両目を閉じたけど、なかなか僕の心は落ち着いてくれない。それでも焦りと息苦しさと暗闇の中で、僕は自然に当時の事を思い出していた。この感覚は僕が引きこもっていた時に、何度も経験した物だ。どうにかしなければという焦りが、彼の飛び降りる瞬間を想起させる。

 同時に、僕の頭に日富さんの言葉が思い浮かぶ。


――扉を閉める――!


 そうだ、目を開けて現実に戻らないと!

 僕がパッと両目を開けると、息の詰まりが消えている。僕は長距離走を終えた後みたいに、ゼーハーと激しい呼吸を繰り返した。

 房来さんが冷静に言う。


「少し時間がかかったな」


 僕としてはかなり早かったつもりなのに!? 僕は房来さんとの認識の差に愕然としてしまった。この人はフォビアとしては駆け出しも同然の僕に、どこまで高いレベルを求めているんだ?


「だが、クラスB相当ではある。日富の見立ては大きく外れてはいないだろう」


 ようやく息が落ち着いて来たところで、房来さんは僕に言う。


「さて、もう一回やってみるか」

「えっ」

「限界を確かめる」

「えっ」


 抗議する暇もなく、手の平を向けられ、息が吸えなくなる。

 ふざけるなよ、この野郎――って怒鳴りたいけど、そんな事をしたらますます息が持たない。

 息が苦しい、死にそうだ。苦しむ僕の頭の中に、ふと嫌な考えが浮かぶ。


――そうまでして生きたいのか? 友達を見捨てたくせに?


 僕は自分の中で生じた疑問に、何も答えを返せない。学校の教室で孤立して、寂しそうな、恨めしそうな彼の目が忘れられない。

 ああ、彼が屋上から飛び降りる! 目を開けて現実に戻らないと!

 条件反射みたいに僕は目を開ける。僕は両手と両膝をついて崩れ落ち、ボロボロと涙を流して、吐きそうなくらい激しくせる。咽喉が痛い、胸が苦しい、頭がクラクラする。でも、息が吸える様になっている。

 助かった。朝の日富さんの言葉が意識付けになっている様だ。


「短時間には二度が限度か?」

「もう、やめ……」


 僕は情けない声で弱音を吐いた。もう無理だ。肉体より精神が持たない。三度目はやめてくれ。房来さんの事がトラウマになりそうだ。


「速度の向上は見られないが、大きな遅延も無い。しかし、肉体が限界だな」


 房来さんは僕なんか眼中に無いみたいに、平然と言ってのける。こんなに冷酷な人は初めて見た。人の心が無いのか?

 違うんだよ、限界なのは肉体じゃない。精神だ。泣いているのは、体が苦しいからじゃない。心が傷付いているからだ。

 涙と嗚咽が止まらない僕を見て、房来さんは大きな溜息を吐く。


「痛みや苦しみの少ない生活を送って来たのか? こうやって他人に追い詰められるのは初めてか?」


 何だ、その言い方は? 僕が甘やかされて何の苦労もなく生きて来たって言いたいのか? 僕だって僕なりに苦しい思いをして生きて来たんだぞ。何も知らない他人にどうこう言われたくない。お前の窒息責めに屈したんじゃない。僕は僕の過去に苦しめられているんだ。そう反論したいけど、言葉にならない。

 僕の口からは負け犬みたいにみっともない唸り声が漏れるだけ。悔しい。どうにもならない自分の無力が恨めしい。


「取り敢えず、気絶するまでやるぞ」


 ああぁぁぁぁ!?!? アホか、こいつ!! どう見ても限界だろ! 鬼、悪魔、外道!

 僕は心の中で暴言を吐き散らした。

 ……息が苦しくならない? 房来さんが僕を気遣って止めてくれたんだろうか?

 それにしては当の房来さんは手の平を僕に向けたまま、驚いた顔をしている。


「止めたのか? 発動前に?」


 知らない。分からない。この人は何を言ってるんだ?

 僕は困惑の中、少しずつ気持ちが落ち着いて体が楽になると同時に、ふわっとした感覚に包まれた。そして急激な眠気に襲われる。

 ……フォビアを使い過ぎたんだろう。抵抗する暇もなく、僕は意識を失った。

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