個別訓練
1
翌日の午前九時、僕は六階の自分の部屋を出て、エレベーターで四階のカウンセリングルームに移動する。
「おはようございます」
「はい、おはようございます。今日の気分はいかがですか?」
日富さんの問いかけに、僕は少し考えて答える。
「まあ、良くも悪くもないです」
「健康そうで何より。では、椅子に座ってください」
良くも悪くもない状態を健康と判断されて、僕はちょっと眉を顰めた。悪くはないんだから、確かに健康なのかも知れないけれど。気分が良くない半分ぐらいは、毎朝日富さんに心を読まれる事なんだよなぁ……。
僕はもやもやした気持ちで、ロッキングチェアに座る。あっ、余計な事は考えない方が良いな。日富さんのせいで気分が良くないとか、そんなのが伝わっても良い事はない。
僕が心を無にしようと念じていると、日富さんの手が額に置かれる。
やっぱり日富さんの手が置かれると、僕の心は安らぐ。これは一体どういう原理なのか、僕にはさっぱり分からない。だから、逆に不安になる。日富さんの超能力は人の心を読むだけじゃなくて、人の精神を操ったりもできるんじゃないか?
「そんな事はできませんよ」
日富さんが僕の思考を読んで答える。
……本当に?
「あなたが安らぎを感じるのは、心の障壁が取り除かれているからです。人が生まれた時に最初に抱く感情は『寂しさ』です。そして抱き上げられて初めて『温もり』を知ります。人が自立した一人の人間である以上、そこには心の障壁が存在していて、故に生まれる感情が寂しさなのです。心の障壁を取り除けば、寂しさの根源が失われます。心は融けて、一つになります」
「……ちょっと言ってる意味が分かりません」
「それで良いんですよ。あなたはあなたで、私は私。あなたは私ではありませんし、私もあなたではありません。だから、あなたは私にはなれないし、私もあなたにはなれないのです」
日富さんの手がゆっくり離れると、僕の心の中には冷たい隙間風が吹いた様な感覚が生じる。温もりを引き剥がされた様な気持ち。多分これも『寂しい』という感情に由来しているんだろう。
日富さんは顎に片手を添えて、少し考えてから言う。
「向日くん。もしかしたら、あなたのフォビアはクラスB相当と認定しても良いかも知れません」
「クラスB?」
「程度はともかく、あなたは自分の意思でフォビアを発動できるみたいですね?」
「そう……なんで……しょうか?」
僕にはよく分からない。確かに昨日の訓練ではフォビアを発動できた。でも、その後に意図せずフォビアを発動させてしまった。それは制御ができているとは言えないと思う。
日富さんはデスクに戻って、僕に言う。
「それと、あなたがフォビアを発動させるのに、大きな決心と精神力を必要とする事は理解しました。次に過去の記憶の扉を開く時には、途中で扉を閉める事を意識してみてください。具体的には、『彼』が飛び降りた瞬間に」
僕はドキッとして冷や汗をかく。やっぱり日富さんは苦手だ。心の中を全部見られてしまう。
「いや、そんな事を言われても……」
「難しい事は承知しています。でも、そのための訓練でしょう?」
合理的な意見は残酷だ。僕は反論できない。大きな困難を乗り越えられる実力が欲しければ、できるまで訓練するしかない。それは当然の事。
だから僕は「はい」としか言えない。
「……はい」
「今日は屋上に行ってください。そこで訓練をする予定になっています」
「屋上?」
屋上なら他に人はいないだろうけど、誰が僕を指導してくれるんだろう?
「行ってみれば分かりますよ」
……今のは心を読まれた訳じゃないよな?
とにかく僕は言われた通り、エレベーターで屋上に行ってみた。
屋上に出たのは初日以来。天気が良ければ清々しい気分にもなれたんだろうけど、今日は生憎の曇り空。ちょっと風が冷たい。
屋上で待っていたのは、眼鏡をかけたスーツ姿の男性。誰だろうと思って、僕は記憶を辿る。眼鏡をかけるだけで人は印象が変わるからな……。
年齢は三十前後に見えるけれど。皆井さん、由上さん、雨田さんとは確実に違う。諸人さん、耳鳴さん、増伏さん、復元さんでもない。……知らない人だったら「初めまして」って言うんだけど、もし知っている人だったら気まずい。
そう思っていると、男性の方から声をかけて来る。
「君が向日くん……か?」
「はい。そうです」
声には聞き覚えが無い。誰なんだと思っている僕に、男性は小さく咳払いをして名乗った。
「私は
「あっ、はい。初めまして」
「初めまして」
全然知らない人だった。「フサギ」って一般的な名前じゃないから、フォビアに関係するコードネームなんだろう。
でも、どんな能力なのか見当が付かない。何かを塞ぐ?
「私のフォビアは窒息恐怖症」
「窒息?」
「そう。息が止まる、その窒息だ。早速訓練を始めよう。こっちに来てくれ」
僕は房来さんに誘われて、屋上の真ん中に移動する。
「さて、これから私は君にフォビアをかける」
「えっ」
「重ねて言うが、私のフォビアは窒息だ。君のフォビアで止めて見せてくれ」
「えっ」
房来さんが僕に手の平の先を向けた瞬間、息が詰まる。空気が吸えない。鼻も口もダメだ。僕は魚みたいにパクパクと口を開け閉めする。
こんなのってありか!? もしフォビアを発動できなかったら、どうする! 死んでしまうぞ!
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