フォビアの訓練
1
僕がウエフジ研究所に来て一週間余り、今日からフォビアの訓練が始まる。
まず僕は起床と同時に携帯電話のメールを確認。今日は火曜日――上澤さんから、午前九時になったら四階メディカルセクションのカウンセリングルームへ行く様にと指示があった。
……カウンセリングルームという事は、日富さんだ。あの人、苦手なんだよなぁ。心を読まれるというのが、何となく気まずい。だからと言って、行かないなんて訳にはいかない。フォビアを使いこなすのに必要な事なんだ。苦手だの何だのと言ってられない。
午前九時にカウンセリングルームに行くと、デスクについていた日富さんがこっちを正視して挨拶する。
「おはようございます、向日くん」
「おはようございます」
日富さんは笑顔だけど、僕は愛想笑いしかできない。
あぁ、朝から気が重い。
「これから土日以外は毎日、今の時間に私の所に来てもらいますので、そのつもりでいてください」
……あの、それはちょっと遠慮したいんですけど……と言いたいけど、言っても変わりはしないだろう。僕自身もカウンセリングの重要性は十分理解している。でも、悪あがきに理由を聞いてみる。
「何でですか?」
「精神状態をチェックするためですよ。フォビアの訓練には精神状態の把握が欠かせません。安定して能力を発揮できない様では、とてもフォビアを使いこなせたとは言ませんからね」
「はい」
そりゃそうだ。反論の余地もない回答に、僕は脱力して頷く。
日富さんは優しい声で僕を誘う。
「さあ、こっちに来て。椅子に座ってリラックスしてください」
僕は言われるままに、室内の大型のロッキングチェアに体を預けた。ロッキングチェアは前後にぐらぐら揺れるけど、意外と安定していて、背もたれに寄りかかっても倒れない。
日富さんが僕の額に手を翳す。僕は警戒して嫌な気持ちになる。心を読まれる。
「そんなに私の事が嫌ですか?」
「いえ、そんな事は……」
日富さんが余りに悲しそうだったから、僕は慌てて否定する。日富さんは人の心が読めるから、僕が嫌がっているのも伝わってしまうんだ……。
直後に日富さんは明るい調子で言った。
「まあ、嫌でも何でもやる事はやりますけどね」
……小芝居かよ! もう何も言わないぞ。反応するだけ損だ。
日富さんは頑なになった僕の額に、そっと手を置きながら言う。
「こんな能力ですから、他人に嫌われるのは慣れてます。でも、私は多くの人の心を見て来ましたから、ちょっとやそっとの事では驚きませんし、人を嫌いになったりもしません」
素手の温もりが伝わって、僕は心が安らぐ。どうしてなのか理由は分からない。
他人に心を見られると、気持ちが楽になる? それはおかしいと思うけど……実際そう感じている。見られているという意識は無いんだけども。
僕は自然に両目を閉じる。
やがて手の温もりが額から離れて、僕は目を開けた。
日富さんは落ち着いた声で言う。
「終わりましたよ。異常なし……という事で、この後は増伏さんの指導を受けてください」
「増伏さんの?」
「今のところ、ここにいるフォビアの人達の中で、彼が一番安定してフォビアを使えますからね」
増伏さんがクラスCだって事は知ってたけど、その中でも一番フォビアの扱いが上手いのかな? それとも他にクラスCの人がいない? 一番最初に自分のフォビアについて話してくれたし、フォビアを使う際も特に変な様子は無かったから、慣れているのは確かだろうけど。
「増伏さんは今どこに?」
「ああ、向日くんは初めてでしたね。地下二階の第三実験室と第四実験室が、フォビアの訓練施設になっています。第三実験室に向かってください」
「分かりました。それでは失礼しました」
僕は一礼してカウンセリングルームを出ると、エレベーターで地下二階に向かう。
地下二階の第三実験室前に着いた僕は、恐る恐る慎重にドアを開けた。
第三実験室はがらんと広くて何も無い部屋だ。その真ん中で、トレーナーを着た増伏さんが堂々と仁王立ちしている。両目を閉じて、瞑想しているみたいだ。
僕が一歩足を踏み入れると、増伏さんはゆっくり両目を開けて、こっちを見る。
「早いな」
「……お邪魔したでしょうか?」
「いや、そんな事は無い。寧ろ退屈していた」
僕は増伏さんの前に移動したけど、増伏さんが何かを始める気配は無い。
「えー、その、増伏さん。僕は日富さんに、今日ここで指導を受ける様に言われたんですけど……」
「分かっているよ。悪いけど、ちょっと待っててくれ。他にも指導しないといけない子達がいるからね。全員揃ってから始めよう」
「ああ、そうなんですか……」
てっきり僕はマンツーマンで指導を受けられるとばかり思っていた。よーく考えてみたら、そんな事は無いよな。地下にはフォビアを制御できなくて困っている人がいるんだし、他にもフォビアの扱いが完全じゃない人がいる。フォビアを使いこなせる程度によって、グループ分けをして練習するのかな? あぁ、そのための「クラス」なのか……。
僕と増伏さんはお互いに話題が無くて、気まずい空気のまま沈黙の時を過ごす。
僕は沈黙に堪えられず、自分から口を開いた。
「増伏さん、フォビアの訓練って何をするんですか?」
「何と聞かれても……その人が持つフォビアによって、訓練の内容は変わる。フォビアを使いこなしたいか、失くしたいかによっても」
「僕の場合は何をすれば良いんでしょうか?」
「君はフォビアを使いこなしたいんだったな。恐れを失えば、フォビアを失う事は知っているかな?」
「はい。そういう話は聞きました」
「逆に言えば、フォビアを使いこなすには恐怖症と長く付き合う覚悟が必要だ。恐れを抱いたまま、その能力を使わなければいけない」
矛盾していると思うけど、増伏さんが言うなら、そうなんだろう。でも、恐れを持ったまま能力を使うのは、怖いと言うか……不安にならないんだろうか?
僕は疑問をぶつける。
「それって難しくないですか?」
「ああ、難しいよ。恐れが大き過ぎれば、制御を失ってしまう。一方で、どんな事でも人は慣れてしまうから。私も何度も能力を失いかけたり、逆に制御を失いかけたりもした」
「そうなんですか?」
「フォビアの能力は不安定なんだ。上手く制御できたと思えるのは、
きっと増伏さんの能力もずっと続く訳じゃないんだ。クラスCの増伏さんでも能力を失う覚悟をしている。
「クラスCって、クラスBに下がったりするんですか?」
「変動は当然あるよ。Cだった人がAにまで後退する事もある。それだけじゃない。フォビアへの恐れを失えばクラスDに分類されて、もう戻らないと判断されるとフォビアではなくなる」
「増伏さんも、そういう経験をされたんですか?」
「ああ、経験だけは豊富だよ」
増伏さんは苦笑いして答えた。フォビアを使いこなそうと思えば、一通りの困難は経験する事になるんだろうな。
それにしてもクラスDの話は初めて聞いた。フォビアへの恐れを失う事も、フォビアが永遠の物じゃない以上は避けられないんだろう。
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