4
その日、僕は疲労と安堵で夢も見ないくらい深い眠りに落ちた。もうC機関は僕を狙わない。何の心配もなく、新しい日々を送れる。
……本当にそうだろうか? これからも色々な困難が訪れて、僕を襲うんじゃないだろうか?
そうだとしても今は忘れよう。遠い未来の事を憂うより、目の前の小さな幸せを見詰めよう。きっと僕は、先の事を考えて何かを変えられる程、賢くはできていない。
翌朝の目覚めは、妙にすっきりしていた。時刻は朝五時半。ちょっと早いけど、良い時間だ。顔を洗って、着替えて、少し体を解せば、朝食の時間になるだろう。
適当に時間を潰した後、僕は食堂に向かう。今日も白いご飯とみそ汁の定食。他のメニューも当然あるんだけれど、飽きるまではこれで良いや。
窓口に食券を差し出すと、おばさんが笑顔で挨拶してくれる。
「あら、おはよう。ご飯が好きなの? 和食派?」
「ええ、まあ。和食派って訳じゃないんですけど。ここのご飯、おいしいんで」
「嬉しい事を言ってくれるじゃない」
早朝だと人が少ないから混雑しないし、待つ時間も短く済む。長くても五分もかからない。
「お待たせ」
「いただきます」
僕はおばさんから朝食の乗ったトレーを受け取ると、その辺の空いた席に適当に座った。特に急ぐ用事もなく、のんびり箸を進めていると、後ろから幾草が話しかけて来る。
「よう、勇悟……昨日は悪かったな」
「謝る事は無いよ。本当に全部、僕のせいだったんだから」
ばつの悪そうな顔をする幾草に、僕は冷静に言った。昨日の内に醜態を晒すだけ晒したお蔭か、今日は落ち着いた気持ちでいられた。
幾草は僕の隣に座りながら言う。
「ああ、その辺の事情は知ってるよ。でも、俺は気にしてないから。誘拐されたって言っても、そこそこ待遇は良かったし。だから、お前も気にするな。俺が気にするなって言ってるんだから、もう気にするな。な?」
「……ありがとう」
僕に言えるのは、その一言だけだった。他のどんな言葉も、今の状況には相応しくない気がする。
幾草が持っているトレーには白い食パンが乗っている。朝はパンを食べる主義なんだろう。だからどうって訳でもないけど、何となく目に入った。
「パン、好きなの?」
「あー、好きって訳じゃないけど、朝は軽い方が良いんだ。勇悟はしっかり取るタイプなんだな」
「ここのご飯はおいしいから……あっ!」
話の途中で僕は思い出した。そうだ、これを忘れちゃいけない。
「幾草はケータイ持ってる?」
「スマホならあるぞ」
「番号を交換しよう」
「ああ、良いぜ」
僕は携帯電話を、幾草はスマートフォンを取り出して、その場でお互いの電話番号を交換する。はぁ、拒否られなくて良かった。
幾草は僕の携帯電話を見て言う。
「それにしてもケータイかよ。スマホ持ってないのか?」
「中学の時は親にまだ早いって言われてたし……。このケータイも入社してから渡された支給品なんだ」
「へー、社用ケータイって奴? 通信料とか会社持ちなんだろ? スゲーな」
「凄い……のかな?」
幾草が何に驚いているのか、よく分からない。通信料を研究所が負担してくれるにしても、そんなに頻繁に使う用事は今のところ無い。タダで使える事、それ自体が凄いって言うなら、そうかも知れない。
とにかく無事に電話番号を交換できた僕達は、朝食を続ける。
幾草はピーナッツバターを塗ったパンを食べながら、誘拐された時の話をした。
「
「……ごめん」
僕が申し訳なさを感じて謝ると、幾草は慌てて弁解する。
「いや、違う違う。そういう事を言いたい訳じゃなくてだな……。閉じ込められたって言っても広くて快適な所だったし、スマホを取り上げられた以外は大した事はされてないし、監視の人は妙に優しくしてくれるし、悪い体験じゃなかったよ。居心地が良かったから、自力で脱走する気も無かった」
幾草が丁重に扱われた背景には、同盟の存在があるんだろう。だから、彼の話が嘘だとは思わない。僕に気を遣って、脚色している部分はあるにしても。
「結局は学校を一日休んだだけだ。別に皆勤を狙ってた訳でもないしな」
「ごめん、幾草。でも、もうこんな事は起こらないと思うから」
「ああ、分かってる、分かってる。さて、そろそろ時間だ。勇悟もさっさと飯を食ってしまえよ。冷めちまうぜ」
パンを食べ終えた幾草は、席を立って食堂を出て行く。
僕の方は彼と話している間、一口もご飯を食べていなかった。僕は温かい味噌汁を飲んで、口の中を潤してから、白いご飯を食べる。
今日は良い日になりますように。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます