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 その日、僕は疲労と安堵で夢も見ないくらい深い眠りに落ちた。もうC機関は僕を狙わない。何の心配もなく、新しい日々を送れる。

 ……本当にそうだろうか? これからも色々な困難が訪れて、僕を襲うんじゃないだろうか?

 そうだとしても今は忘れよう。遠い未来の事を憂うより、目の前の小さな幸せを見詰めよう。きっと僕は、先の事を考えて何かを変えられる程、賢くはできていない。



 翌朝の目覚めは、妙にすっきりしていた。時刻は朝五時半。ちょっと早いけど、良い時間だ。顔を洗って、着替えて、少し体を解せば、朝食の時間になるだろう。

 適当に時間を潰した後、僕は食堂に向かう。今日も白いご飯とみそ汁の定食。他のメニューも当然あるんだけれど、飽きるまではこれで良いや。

 窓口に食券を差し出すと、おばさんが笑顔で挨拶してくれる。


「あら、おはよう。ご飯が好きなの? 和食派?」

「ええ、まあ。和食派って訳じゃないんですけど。ここのご飯、おいしいんで」

「嬉しい事を言ってくれるじゃない」


 早朝だと人が少ないから混雑しないし、待つ時間も短く済む。長くても五分もかからない。


「お待たせ」

「いただきます」


 僕はおばさんから朝食の乗ったトレーを受け取ると、その辺の空いた席に適当に座った。特に急ぐ用事もなく、のんびり箸を進めていると、後ろから幾草が話しかけて来る。


「よう、勇悟……昨日は悪かったな」

「謝る事は無いよ。本当に全部、僕のせいだったんだから」


 ばつの悪そうな顔をする幾草に、僕は冷静に言った。昨日の内に醜態を晒すだけ晒したお蔭か、今日は落ち着いた気持ちでいられた。

 幾草は僕の隣に座りながら言う。


「ああ、その辺の事情は知ってるよ。でも、俺は気にしてないから。誘拐されたって言っても、そこそこ待遇は良かったし。だから、お前も気にするな。俺が気にするなって言ってるんだから、もう気にするな。な?」

「……ありがとう」


 僕に言えるのは、その一言だけだった。他のどんな言葉も、今の状況には相応しくない気がする。

 幾草が持っているトレーには白い食パンが乗っている。朝はパンを食べる主義なんだろう。だからどうって訳でもないけど、何となく目に入った。


「パン、好きなの?」

「あー、好きって訳じゃないけど、朝は軽い方が良いんだ。勇悟はしっかり取るタイプなんだな」

「ここのご飯はおいしいから……あっ!」


 話の途中で僕は思い出した。そうだ、これを忘れちゃいけない。


「幾草はケータイ持ってる?」

「スマホならあるぞ」

「番号を交換しよう」

「ああ、良いぜ」


 僕は携帯電話を、幾草はスマートフォンを取り出して、その場でお互いの電話番号を交換する。はぁ、拒否られなくて良かった。

 幾草は僕の携帯電話を見て言う。


「それにしてもケータイかよ。スマホ持ってないのか?」

「中学の時は親にまだ早いって言われてたし……。このケータイも入社してから渡された支給品なんだ」

「へー、社用ケータイって奴? 通信料とか会社持ちなんだろ? スゲーな」

「凄い……のかな?」


 幾草が何に驚いているのか、よく分からない。通信料を研究所が負担してくれるにしても、そんなに頻繁に使う用事は今のところ無い。タダで使える事、それ自体が凄いって言うなら、そうかも知れない。

 とにかく無事に電話番号を交換できた僕達は、朝食を続ける。

 幾草はピーナッツバターを塗ったパンを食べながら、誘拐された時の話をした。


一昨日おとといの夕方、帰り道で黒服に囲まれて、車に乗れって言われてさ。あの時は焦ったぜ。まあ、ちょっと脅されただけで、暴力とか振るわれた訳じゃないから良かったけど。マンションみたいな所に閉じ込められて、そこで一日中ゴロゴロしてた」

「……ごめん」


 僕が申し訳なさを感じて謝ると、幾草は慌てて弁解する。


「いや、違う違う。そういう事を言いたい訳じゃなくてだな……。閉じ込められたって言っても広くて快適な所だったし、スマホを取り上げられた以外は大した事はされてないし、監視の人は妙に優しくしてくれるし、悪い体験じゃなかったよ。居心地が良かったから、自力で脱走する気も無かった」


 幾草が丁重に扱われた背景には、同盟の存在があるんだろう。だから、彼の話が嘘だとは思わない。僕に気を遣って、脚色している部分はあるにしても。


「結局は学校を一日休んだだけだ。別に皆勤を狙ってた訳でもないしな」

「ごめん、幾草。でも、もうこんな事は起こらないと思うから」

「ああ、分かってる、分かってる。さて、そろそろ時間だ。勇悟もさっさと飯を食ってしまえよ。冷めちまうぜ」


 パンを食べ終えた幾草は、席を立って食堂を出て行く。

 僕の方は彼と話している間、一口もご飯を食べていなかった。僕は温かい味噌汁を飲んで、口の中を潤してから、白いご飯を食べる。

 今日は良い日になりますように。

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