幾草という少年

1

 取り敢えず一通りの用事が終わったので、事務所の受付から離れてエレベーターを待っていると、ピピピと社用の携帯電話が鳴った。体温計のアラームみたいな音だったから、最初は着信音だと分からなかった。そのせいで何が鳴っているんだと少し焦った。変な音楽が設定されているよりは良いけどさ。

 誰からだろうと思って携帯電話を開くと、「上澤」と表示されている。僕はすぐに受話器のマークが描かれた通話ボタンを押した。


「はい、篤黒です」

「上澤だ。篤黒くん、幾草千十兩を知っているか?」

「はい。幾草がどうしたんですか?」

「昨日から帰っていないんだ。夕方に高校を出たところまでは、こちらで確認できているんだが……。何か知らないか?」

「いいえ、僕は何も……」

「分かった。篤黒くんは、今日は待機だ。このビルから出ずに、部屋で大人しくしていてくれ」

「はい」


 上澤さんが先に通話を切って、僕は後から通話を切る。

 幾草に何かあったんだろうか? いや、何かあったんだろう。それは確かだ。彼も特殊な能力――というか体質を持っていると言っていたから、何者かに狙われたのかも知れない。誰が狙うかなんて分からないけど。

 ああ、僕は何もしないままで良いんだろうか? 上澤さんが言った「大人しくしていてくれ」の真の意味は、「余計な事をするな」だろう。僕一人が焦って飛び出したところで、何かできる訳じゃない。何をすれば良いかも分からないのに。

 何もできないという事実が、僕を苦しめる。ああ、こんな所でフォビアを発動させたって、無意味なのに。

 僕は失意の中、自分の部屋に戻った。その直後、また携帯電話が鳴る。相手は……上澤さんだ。


「はい」

「篤黒くん、ちょっと困った事になったぞ。幾草くんはC機関に捕まっている。ついさっき、C機関から連絡があったんだ。幾草くんを返して欲しければ、篤黒くんを渡せとな」

「そうですか……」


 その可能性は正直なところ考えていた。ただ……僕のせいだとは思いたくなかったから、目を瞑った。でも結局こうなるんだな。はぁ、悪い予感ばかりよく当たる。

 気落ちしている僕に、上澤さんは告げる。


「こちらとしては、まず向こうと交渉したいと思う。篤黒くんも交渉の場に出てくれないか? 大丈夫、君をC機関に引き渡すつもりはない」

「……分かりました」

「これは交渉、話し合いだ。あちらも手荒い真似はしないだろう」

「それは……」


 それは違うんじゃないのか? そうとは言い切れないんじゃないのか? だって、僕はC機関の人達に攻撃された事があるんだぞ。今度は攻撃して来ないって、どうして言えるんだ?

 僕の心配を余所に、上澤さんは言う。


「大丈夫、C機関に幾草くんを傷付ける事はできない。彼は私達にとって重要な人物なんだ。交渉のダシに利用しているに過ぎない。それで、こちらから交渉に出かけるのは午後にしようと思う。詳細は追って知らせるが、先に昼食を取っていてくれ」


 上澤さんの言葉は力強く、確信を持っていた。僕は不安だったけど、上澤さんを信じた。ここで僕が焦っても慌てても、何にもならない。それだけは絶対に確かな事だったから。


「分かりました」

「苦労をかけて済まないね」

「いいえ、そんな……」


 通話を終えた僕は、落ち着かない気持ちで室内の時計を確認する。現在の時刻は午前十時半。交渉に出るまで少なくとも一時間半はある。

 落ち着け、落ち着くんだ。そわそわしても、どうにもならない。心の中でそう唱えながら、僕は深呼吸を繰り返したけど、落ち着く事は全くなかった。



 昼食を取って、午後二時。テーブルに置いた携帯電話を睨んで、今か今かと呼び出しを待っていると、今日三度目の着信音が鳴る。僕は即座に携帯を手に取った。相手は予想通り上澤さん。


「はい」

「篤黒くん、交渉に出かけるぞ。一階に下りて来てくれ」

「はい」


 僕は即答して部屋を飛び出し、エレベーターで一階に向かった。心が焦っているとエレベーターが一階に着くまでの時間も惜しい。

 僕が一階のフロアに出ると、副所長の上澤さんと二人のスーツ姿の男性がロビーで待っていた。


「篤黒くん、こっちだ」


 上澤さんに呼ばれて、僕は駆け寄る。二人の男性は復元さんと浅戸さんだ。上澤さんは僕と浅戸さんと復元さんに、それぞれ視線を送って言う。


「交渉は浅戸が担当する。篤黒くんは、その場にいるだけで良い。復元、何があっても篤黒くんを守れ。一応、同盟に仲介を依頼しているから、交渉が進まなくても時間を稼げば良い」


 何もしなくて良いというのは、楽ではあるけど、同時に苦痛でもある。まるで全然何も期待されていないみたいだ。お前には何もできないと言われているに等しい。

 いや、いけない、いけない。無力感に心を支配されると、僕のフォビアが発動してしまう。まだ何も始まってもいない。


「では、頼んだぞ。必ず幾草くんを連れて帰って来い」


 上澤さんの言葉に頷いた浅戸さんと復元さんは、正面玄関から出て行く。僕も二人の後を追って、ビルの外に出た。二人は敷地内の駐車場にある白い大型のバンに向かっていく。

 あれに乗って……どこへ行くんだろう? そう言えば、僕は向かう先を聞かされていない。

 浅戸さんが運転席に乗り込む一方で、復元さんはスライドドアを開けて僕を呼ぶ。


「篤黒くん、こっちだ」


 僕は復元さんに誘導されて、バンの中列に乗り込む。続いて復元さんも僕の隣に乗り込んで、スライドドアを閉めた。


「浅戸、出して良いぞ」

「了解。シートベルトを締めろよ」


 浅戸さんはすぐにバンを発進させる。同時に復元さんは、シートベルトを締めようとしていた僕に厚手のベストを渡した。


「これは?」

「防護ベストだ。必要ないとは思うが、念のためな」


 この前みたいに攻撃される可能性があるという事なんだろう。僕は服の上にベストを着て、シートベルトを締める。それから僕は浅戸さんに尋ねた。


「どこに行くんですか?」

「南の外れにある廃ビルだ。地権者はおらず、人も近寄らない。私達も彼等も、都合好く使っている」

「『も』?」

「C機関とF機関は、敵同士という訳じゃないんだよ。君を巡っての何やかんやが、ちょっと複雑なだけでね」


 浅戸さんも都辻さんと同じ事を言う。本当にC機関とF機関は敵対関係じゃないみたいだ。

 それなのに強硬策に出るって事は、僕ってそんなに重要な存在なんだろうか? 僕に何をさせようというんだろう?


 バンは市街地の外周を走って、南側の外れにある廃ビルに向かう。周辺の学校では心霊スポットとして有名だった場所だ。僕が通っていた小学校と中学校でも、霊だの何だのの噂があった。実際に行った事は一度も無いけど。


 浅戸さんはバンを廃ビルの駐車場に置いて、運転席から降りる。復元さんと僕も順番に降りた。敷地内は雑草が伸び放題で、まともに整備されていない。廃ビルは六階建て。壁面は全体的に黒く汚れている。

 不気味な所だと思って、ビルを見上げている僕に、復元さんが工事現場で使う様な半球形のヘルメットを渡す。


「篤黒くん、こいつを被って」

「えっ」

「念のためだよ、念のため」


 復元さんは強調したけど、本当に念のためなんだろうか?

 先に渡されていた防護ベストと合わせて、防御は固くなっているけれど、逆に不安が増して来る。それでも身の安全のためには、被らないという選択は無かったから、僕は素直に頭にヘルメットを装着した。

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