僕のフォビア

1

 それから……結局、初日は研究所の中を案内されただけで終わって、仕事を与えられたりはしなかった。ずっと自分の部屋で待機していただけだ。

 夕方になって、今から仕事は無いだろうと思った僕は、スーツを脱いで普段着に着替える。早速スーツのスラックスがダメになってしまった。替えの分は持ってるんだけど、このままじゃいけないから、クリーニングに出さないと。売店でお願いできるんだったかな?

 僕は荷物を整理しながら、明日からの事を考える。自分に何ができるかは分からないけど、早く人の役に立てる様になりたい。



 二日目、朝六時に起きた僕は、寝間着から普段着に着替えて、朝食を取りに一階に移動した。久し振りに健康な人間の生活を送っている気がする。

 六時から七時の間の食堂は人が少ない。皆もう少し遅く朝食を取るんだろう。

 僕が「白いご飯とみそ汁の定食」を食べていると、横から僕と同じくらいの年齢の少年が話しかけて来た。


「君が昨日入ったっていう新人?」

「え? はい」


 僕は汁椀を持ち上げようとしていた手を止めた。

 彼が持っているトレーには、牛乳とサンドイッチが乗っている。朝は軽めの洋食派なんだろう。それはそれとして、彼は誰なんだ?

 困惑している僕に、彼は名乗る。


「俺は幾草いくさ千十兩せんじゅうりょう。ここで暮らしてる。高校二年だ」

「僕は篤黒勇悟です」


 幾草さんに合わせて、僕も名乗った。高校二年って事は、彼は僕より一つ上だ。


「勇悟、よし覚えたぞ」

「……幾草さんもフォビアなんですか?」

「敬語もさん付けもやめてくれよ。一つしか違わないだろ? 長幼の序って言うの? 一年二年の差で、そういうのはどうもな」

「でも、呼び捨ては……」

「幾草が嫌なら、千ちゃんでも良いぜ?」

「分かり――分かったよ、幾草」


 高校の先輩なら、さん付けは普通だと思うんだけど、どうしても彼は嫌みたいだ。何か嫌な思いでもしたんだろうか? だけど、初対面で気安く千ちゃんと呼ぶ気にはなれない。幾草が無難だろうと僕は考えた。

 ……いや、そんな事より彼はまだ僕の質問に答えていない。


「幾草もフォビアなの?」

「おいおい、待った。ここでそれはNGだって」

「あっ……ごめん」


 僕はうっかりしていた。昨日、都辻さんに言われたばっかりじゃないか! ここは研究所の中じゃないから、F機関やフォビアの話は避けろって。

 幾草は「しょうがないな」という顔で、僕に言う。


「俺は違う。だけど、普通の人間じゃない」

「何か特殊な能力が?」

「俺には分からないし、自覚も無いんだけど、何か他の人とは違う所があるらしい」


 やっぱりフォビアじゃないかなと僕は思うんだけれど、本人が違うって言ってるから違うんだろう。

 幾草は食堂の時計に目をやって、急いでサンドイッチを口に放り込む。


「お、やべっ、学校に遅れちまう」

「学校行ってるの?」


 てっきり彼も僕と同じで、ここに就職していると思っていたけど……違うのかな? いや、ここで働きながら学校に行ってるのかも。


「俺のは体質だとかで能力じゃないらしいから。何か特別な事ができるとか、そういう訳じゃない。一般人と何も変わらないんだってよ。じゃ、また夕方な」


 そう言って幾草は小走りで去って行った。同年代の人が研究所にいて、僕は少し安心していた。一緒に仕事をする訳じゃないだろうけど、友達になれると良いな。

 ……僕は二度と友達を失いたくない。だから、今度こそ何かあったら、僕が彼を守らなければ。同じ過ちは繰り返さない。



 朝食後の朝八時、僕が部屋で少し休んでいると、副所長の上澤さんが訪ねて来る。


「おはよう、篤黒くん! 早速だけど、君のフォビアの能力を確定させよう!」

「は、はい」


 いきなり入室されたので、僕はびっくりした。オートロックだからカードキーが無いと開かないはずなのに! 副所長権限でマスターキーを持ってるんだろうか?

 それにしても副所長の朝は早い。九時始業とか重役出勤という言葉とは、無縁なんだろう。


「今、スーツに着替えますから……」


 僕はそう言ったけど、副所長は笑い飛ばす。


「そのままで良いよ。スーツなんて堅苦しいだけだろう」

「そ、そうですか……?」

「さあさあ! まずは四階のメディカルセクションで精神鑑定だ!」

「精神鑑定……分かりました」


 僕は深呼吸を一つして、気分を落ち着けた。過去を思い返そうとすると心臓が早鐘を打つ。他人に洗い浚いを告白するのは、初めての事だ。そうしなければ、僕のフォビアの真の正体は分からない。僕としても僕のフォビアを曖昧にしたままにはできないし、これは避けられない道なんだ。いつまでも自分の過去から逃げ続けてはいられない。嫌だから、怖いからとは言っていられない。

 しかし、上澤さんはやる気満々で楽しそうだ。テンションの違いに僕は一層暗い気持ちになる。人の気も知らないで……。

 ああ、いけない、いけない。いじけてばかりじゃ、なる事もならなくなる。前を向かなければ。



 上澤さんの案内で、僕はメディカルセクション内のカウンセリングルームに入る。室内にいたのは、眼鏡をかけた白衣の若い大人の女性。その人は上澤さんを見て眉を顰めた。


「……副所長?」

「そんなに驚く事は無いだろう」

「お暇なんですか?」

日富ひとみくんは私を何だと思っているのか」

「上司です。それで、副所長ご自身は何のご用でしょう?」

「いや、私の方は何も用は無い。私が新人くんの面倒を見てはいけないのか」

「お暇なんですか?」

「君は本当に好い性格をしているな」

「お褒めに与り、光栄です」

「……まあ良い。彼の事、しっかり頼んだよ。私は外で待っている。また後でな、篤黒くん」


 上澤さんは言い合いから下りて、溜息を吐いて出て行った。

 僕は何と言って良いか分からなくて、突っ立っているだけ。そんな僕に日富さんが話しかけて来る。


「どうぞ、こっちに来て座って」


 僕は言われるままに、日富さんの対面の椅子に腰を下ろした。


「おはようございます。まずはお名前を聞かせてください」

「……篤黒勇悟です」

「私は日富ひとみ懐香なつか。さっきの事は気にせずに、気持ちを楽にしてください」

「は、はい」


 さあいよいよだぞと僕は緊張する。気持ちを楽にと言われても、どうしても固くなってしまう。

 日富さんは緊張している僕に、優しく微笑んで言った。


「まず……勇悟くん、あなたのこれまでの人生を振り返ってみてください」

「えっ?」


 いきなり人生と言われて、僕は戸惑う。僕の人生なんて精々十五年だ。赤ちゃんの頃の記憶は無いから、語れる事は十五年分よりも確実に少ない。

 どこから振り返れば良いのかも分からない僕に、日富さんは尋ねる。


「あなたの最初の記憶は何ですか?」

「……保育園より前の記憶が少しあります。三歳か、四歳ぐらい……? 家で母さんと留守番していました。その日は父さんが遅くて、母さんと二人で夜遅くまで起きていました。多分、これが一番古い記憶です」

「他には? 言わなくても良いですから、思い出せるだけ思い出してください。保育園より前の記憶は、いくつありますか?」


 僕は頭の中で古い記憶を一つ一つの振り返る。

 父さんの買って来たケーキが美味しかった記憶。母さんが包丁で手を切ってしまった記憶。初めて海に行った記憶。お盆に父さんと母さんの実家に出かけた記憶。保育園に行くか母さんに聞かれた記憶。裕花と初めて会った記憶。ヒーターで火傷しかけた記憶。サンタクロースの正体が父さんだと知った記憶……意外と思い出せるな?

 懐かしい気持ちに浸っている僕に、日富さんは席を立って近付く。


「動かないで」


 日富さんは僕の額にそっと右手を置いた。小指の辺りが目に被さって、僕は自然に目を閉じる。温もりが伝わって来る……。


「保育園から少しずつ時間を進めて行きましょう。力を抜いて」


 僕は椅子の背もたれに寄りかかる。

 日富さんは僕の額を軽く掴んで、ゆっくりと時計回りにぐわんぐわんと回す。僕の頭もぐわんぐわんと回って、時計が進む様に記憶が巡る。

 幼稚園、保育園、小学校……。良い事も悪い事もあったけれど、どれもこれも大切な思い出だ。温かく懐かしい気持ちで、僕は過去を振り返る。だけど、中学三年になった所で僕は声を上げた。


「待ってください。ちょっと、やめてください」

「おや、どうしました?」


 僕は目を開けて、日富さんの手を振り払った。動悸が激しくなって、頭の中でガンガン響く。

 日富さんは優しい声で僕に言った。


「辛い思いをしたんですね……」

「はい」


 僕は俯いて小さく頷いた。許されない罪が、そこにはある。

 日富さんは少しの間を置いて、再び僕の額に右手で触れた。


「何も言わなくて良いから、ゆっくり思い出しましょう。ゆっくり、ゆっくり。自分のペースで」


 僕は中学三年の一年間を振り返る……。

 転校生。いじめの始まり。見ているだけの僕。学校に来なくなった彼。

 どうして僕は何もしなかったのか? あんな事になるとは、これっぽっちも思わなかったからだ。彼がどれだけ追い詰められていたかも知らないで。僕は僕自身を許せない。僕がもう少し何かできていれば、悲劇は避けられたかも知れないのに。

 何をすれば良かったのか? そんなの何でも良かったんだ。もう少し彼と話し合ったり、他の友達と相談したり、先生を頼ったり……転校生を殴って止める事だってできたはずだ。どんな小さな事でも、彼のために何かできていれば、何かが変わったかも知れない。

 だけど、僕には何もできなかった。何もできなかった結果が、今の僕……。


 僕は泣いていた。涙が目から零れて、頬を伝って落ちる。

 日富さんは僕の額から手を離して、静かに席に戻ると、小声で呟く。


「それがあなたのフォビア……」

「僕のフォビア?」


 僕は涙を拭って、日富さんを見た。


「あなたは無力感を抱えています。トラウマを持っている人には、よくある事なのですが……あなたの場合は、他の人とは少し違います」

「……どうして分かるんですか?」

「超能力者だからです。私の能力は人の心を読む事。この手で触った人の考えている事が分かります。日富懐香はコードネーム」

「あなたもフォビアだったんですか?」

「いいえ、私は。今のであなたの過去は全て見せてもらいました」


 ……は? そんなのってありかよ。いや、ちょっと怪しいとは感じていたけども。少しずつ心を開いて行くというか、僕が自分の過去と向き合える様にしてくれるのかと思ってたよ。だってここはカウンセリングルームだし。

 僕の過去は全て見たって、本当に全部見たのか? プライバシーも何もあったもんじゃない……!

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