新しい一日
1
翌週、僕の出勤初日。午前七時、父さんと母さんに見送られて、僕は久遠ビルディングに向かった。
着慣れないスーツは窮屈だけど、身が引き締まる思いがする。今日から住み慣れた我が家を離れて、研究所での寮生活だ。日常生活に必要な物を詰め込んだバッグが少し重い。
期待と不安の入り混じった気持ちで、僕は一歩一歩道路を踏み締める。ああ、高校に通い始めた頃の事を思い出す。つい
思考がネガティブになって、足が震え始める。いけない、いけない。今からこんなでどうするんだ!
住宅地を通り抜けると、周りに建物がない少し開けた場所に出る。そこで僕は正面から歩いて来た一人の男性に声をかけられた。
「お前が篤黒勇悟だったんだな」
黒いスーツの上にオリーブ色のコートを羽織り、サングラスをかけた長身の男性。どこかで会った気がする。僕は警戒して問いかける。
「誰ですか?」
「C機関の者だ」
「C機関?」
「分かり易い言い方をすれば、F機関のライバル組織だ」
「……それで、僕に何か?」
嫌な予感がする。無視して行きたいところだけど、そうさせてくれそうな雰囲気じゃない。サングラスをかけた男性は、胸ポケットからペンを取り出して、指先でくるくる回す。
「F機関はやめとけ。C機関に来い。C機関こそがフォビアを最も理解している」
「そんな事を言われても……。もう就職は決まっちゃったんで……。書類も郵送して提出しましたし……」
「細かい事は後からどうとでもなる。C機関が目指すのはフォビアの超克だ。フォビアは真の超能力者になれる可能性を秘めている。それに比べてF機関はフォビアの有用性、将来性を理解していない」
「その、難しい話は分かんないんで、僕の勧誘は諦めてください」
僕はサングラスをかけた男性の横を素通りしようと、片足を踏み出した。直後、誰かに背中からぐぐっとスーツの上着を引っ張られる。
「おわっ!?」
何事かと思って後ろを振り返っても誰もいない。サングラスをかけた男性は含み笑いをして名乗る。
「俺は
兎狩と名乗った彼は、僕にボールペンの先端を向けた。瞬間、左膝に激痛が走って、僕は思わず叫ぶ。
「ギャッ!」
僕の左膝に何かが突き刺さった感覚。反射的に手で膝を押さえると、ぬるりと湿った嫌な感触がある。スーツに血が滲んでいる。
兎狩は得意気に解説する。
「お前もフォビアならクラスの違いを知っておくんだな。能力を制御できないクラスA、一定の制御が可能なクラスB、完全に制御できるクラスC。どんなフォビアでもクラスCになれば、それなりに役に立つ。まだ駆け出しのお前はクラスAだ」
上から目線の物言いに、僕は怒りの言葉をぶつける。
「こんな事されて付いて行くと思ってるんですか!」
「お前の意思は関係無い。力の弱い者は、強い者に従う他に無いんだ。まあ、そう嫌がるなよ。C機関も悪い所じゃないさ」
今日から新しい人生の第一歩を踏み出す予定だったのに、どうしてこんな妨害があるのか……。僕は自分の不幸を嘆いた。どうして僕の人生、こうなんだろう? 立ち直ろうとした矢先に挫かれる。
「おいおい、浅戸の頼みで新人くんを迎えに来てみれば……何とも面倒臭い事になってんなぁ」
僕が諦めかけた時、やる気の無い、気怠そうな声がした。僕も兎狩も声のした方を見る。そこに立っていたのは、白いスーツの男性。こんな目立つ格好で外を歩く人は初めて見たから、また変な人が現れたとげんなりした気分になる。多分F機関の人だろうから、味方が現れてくれた事は嬉しいんだけど。
兎狩が警戒した声で言う。
「
「兎狩、横取りは良くないなぁ。彼は先にウチと契約したんだ。俺が来たからには、もう諦めてくれよ」
「とぼけるな。横取りしたのは、そっちだろう」
「さて、何の事やら? 裏話には興味ないんでね」
「減らず口を!」
兎狩は復元さんに向けて、三度ペンで宙を突いた。復元さん表情が苦痛に歪んで、スーツの両肩と右膝に赤い染みが浮かぶ。白いスーツだからよく目立つ。
驚くばかりで何もできない僕に、復元さんは片膝をつきながらも、不敵な笑みを浮かべてみせる。
「新人くん、そんな心配するなって」
脚に力を入れて立ち上がろうとする復元さんに、兎狩は情け容赦なく連続して追撃を加えた。今度は両腕、両腿、左胸、右脇腹。ばらばらと地面に赤い
「いくら不死身のお前でも、痛みはあるし、回復にも時間がかかるだろう。動かなければ、これ以上の追撃はしない」
兎狩の警告にもかかわらず、復元さんは立ち上がろうとする。これ以上攻撃されたら死んでしまうかも知れないのに。僕は何もできないままなのか?
兎狩が溜息を吐いて、ボールペンの先を復元さんに向ける。
「警告したぞ」
「あ、あぁあ……」
僕は絶望する事しかできない。殺される。殺されてしまう……と思ったけど、復元さんには何も起こらない。兎狩は二度、三度とボールペンで宙を突いて、何も起こらない事を再確認すると、小さく舌打ちして僕を睨んだ。
「お前のフォビアか!」
そんな事を言われても、僕は自分のフォビアの能力を知らないから、何とも答えられない。そうなのかも知れないと思うだけだ。
「おい、
兎狩は続けて、僕の右側に目を向けて叫んだ。振り向くと、そこには背の低い男性がいる。この人もフォビアなのか? 最初から二人一組だった?
場が混乱している。僕も「敵」も。そうこうしている間に、復元さんが立ち上がって言う。
「さてさて、面白い事になったな。お得意のフォビアが使えない訳だ」
「……今回は引き下がろう。だが、諦めた訳ではないぞ、篤黒勇悟」
兎狩は瀬峨に視線で合図を送り、じりじりと後退して曲がり角で姿を消す。
僕と復元さんは安心して、同時に溜息を吐いた。
復元さんはもう傷の痛みを感じていないのか、それとも我慢しているのか、平然とした態度で僕に話しかける。
「やれやれ、初日から災難だったな、新人くん。怪我とかしてない?」
そう言われて、僕は自分の左膝の状態を改めて確かめた。もう痛みは完全に消えているし、傷口も塞がっている。ただスラックスに1mmぐらいの小さな小さな穴が開いていて、周りに血が染み込んでいるから、傷を負ったのは事実だ。注射みたいに受けた瞬間が痛いだけで、思ったより軽傷だったんだろう。復元さんも出血の割には元気そうだし。
「膝をやられたんですけど……治ったみたいです。他には別に……」
「それは良かった。じゃあ、行こうか」
そう誘いかけてくれた復元さんだけど、僕は復元さんの赤く染まったスーツが気になる。余りにも目立ち過ぎる。
僕の視線に気付いた復元さんは、苦笑いした。
「ああ、まだ名乗っていなかったね。俺は復元治己、F機関のフォビアだよ」
「篤黒勇悟です」
復元さんは僕の事を知っていそうだったけど、僕も礼儀として名乗る。……いや、そうじゃなくて。僕が気にしているのは復元さんの服の方だ。
まだ怪訝な顔をする僕に、復元さんは言う。
「俺の怪我なら心配ご無用。俺のフォビアは簡単に言うと『回復』だから」
「あ、はい」
いや、そうでもなくて。
「あの、復元さん。服は大丈夫ですか?」
「ん? この服? ははぁ、全然大丈夫じゃないね。でも平気平気。戻ったらすぐ着替えるよ」
「そ、そうですか……」
「早く行こう」
この人は細かい事を気にしない性格なのかな……。いや、今はどうする事もできないから、気にしないだけなのかも。まさか服を脱ぎ捨てる訳にもいかないだろうし。思い切りが良いと言うか、肝が据わっていると言うか、羨ましい性格だ。
僕は復元さんの後を歩いて、久遠ビルディングに向かう。久遠ビルディングの場所は分かっているんだから、本当は僕が復元さんの前を歩いて、血の痕が目立つ復元さんの服を少しでも隠すべきなんだろうけど、そこまでは考えが回らなかった。
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