新しい一日

1

 翌週、僕の出勤初日。午前七時、父さんと母さんに見送られて、僕は久遠ビルディングに向かった。

 着慣れないスーツは窮屈だけど、身が引き締まる思いがする。今日から住み慣れた我が家を離れて、研究所での寮生活だ。日常生活に必要な物を詰め込んだバッグが少し重い。

 期待と不安の入り混じった気持ちで、僕は一歩一歩道路を踏み締める。ああ、高校に通い始めた頃の事を思い出す。つい一月ひとつき前の事なんだけども。また心が折れないか心配だ。仕事が手に付かなくなったら、どうしよう……。

 思考がネガティブになって、足が震え始める。いけない、いけない。今からこんなでどうするんだ!


 住宅地を通り抜けると、周りに建物がない少し開けた場所に出る。そこで僕は正面から歩いて来た一人の男性に声をかけられた。


「お前が篤黒勇悟だったんだな」


 黒いスーツの上にオリーブ色のコートを羽織り、サングラスをかけた長身の男性。どこかで会った気がする。僕は警戒して問いかける。


「誰ですか?」

「C機関の者だ」

「C機関?」

「分かり易い言い方をすれば、F機関のライバル組織だ」

「……それで、僕に何か?」


 嫌な予感がする。無視して行きたいところだけど、そうさせてくれそうな雰囲気じゃない。サングラスをかけた男性は、胸ポケットからペンを取り出して、指先でくるくる回す。


「F機関はやめとけ。C機関に来い。C機関こそがフォビアを最も理解している」

「そんな事を言われても……。もう就職は決まっちゃったんで……。書類も郵送して提出しましたし……」

「細かい事は後からどうとでもなる。C機関が目指すのはフォビアの超克だ。フォビアは真の超能力者になれる可能性を秘めている。それに比べてF機関はフォビアの有用性、将来性を理解していない」

「その、難しい話は分かんないんで、僕の勧誘は諦めてください」


 僕はサングラスをかけた男性の横を素通りしようと、片足を踏み出した。直後、誰かに背中からぐぐっとスーツの上着を引っ張られる。


「おわっ!?」


 何事かと思って後ろを振り返っても誰もいない。サングラスをかけた男性は含み笑いをして名乗る。


「俺は兎狩とがり槍矢そうや。フォビアは『先端恐怖症』、クラスC。宜しく、篤黒勇悟くん」


 兎狩と名乗った彼は、僕にボールペンの先端を向けた。瞬間、左膝に激痛が走って、僕は思わず叫ぶ。


「ギャッ!」


 僕の左膝に何かが突き刺さった感覚。反射的に手で膝を押さえると、ぬるりと湿った嫌な感触がある。スーツに血が滲んでいる。

 兎狩は得意気に解説する。


「お前もフォビアならクラスの違いを知っておくんだな。能力を制御できないクラスA、一定の制御が可能なクラスB、完全に制御できるクラスC。どんなフォビアでもクラスCになれば、それなりに役に立つ。まだ駆け出しのお前はクラスAだ」


 上から目線の物言いに、僕は怒りの言葉をぶつける。


「こんな事されて付いて行くと思ってるんですか!」

「お前の意思は関係無い。力の弱い者は、強い者に従う他に無いんだ。まあ、そう嫌がるなよ。C機関も悪い所じゃないさ」


 今日から新しい人生の第一歩を踏み出す予定だったのに、どうしてこんな妨害があるのか……。僕は自分の不幸を嘆いた。どうして僕の人生、こうなんだろう? 立ち直ろうとした矢先に挫かれる。


「おいおい、浅戸の頼みで新人くんを迎えに来てみれば……何とも面倒臭い事になってんなぁ」


 僕が諦めかけた時、やる気の無い、気怠そうな声がした。僕も兎狩も声のした方を見る。そこに立っていたのは、白いスーツの男性。こんな目立つ格好で外を歩く人は初めて見たから、また変な人が現れたとげんなりした気分になる。多分F機関の人だろうから、味方が現れてくれた事は嬉しいんだけど。

 兎狩が警戒した声で言う。


復元ふくもと治己なおき!」

「兎狩、横取りは良くないなぁ。彼は先にウチと契約したんだ。俺が来たからには、もう諦めてくれよ」

「とぼけるな。横取りしたのは、そっちだろう」

「さて、何の事やら? 裏話には興味ないんでね」

「減らず口を!」


 兎狩は復元さんに向けて、三度ペンで宙を突いた。復元さん表情が苦痛に歪んで、スーツの両肩と右膝に赤い染みが浮かぶ。白いスーツだからよく目立つ。

 驚くばかりで何もできない僕に、復元さんは片膝をつきながらも、不敵な笑みを浮かべてみせる。


「新人くん、そんな心配するなって」


 脚に力を入れて立ち上がろうとする復元さんに、兎狩は情け容赦なく連続して追撃を加えた。今度は両腕、両腿、左胸、右脇腹。ばらばらと地面に赤い飛沫しぶきが落ちて、復元さんは両膝をついて崩れ落ちる。


「いくら不死身のお前でも、痛みはあるし、回復にも時間がかかるだろう。動かなければ、これ以上の追撃はしない」


 兎狩の警告にもかかわらず、復元さんは立ち上がろうとする。これ以上攻撃されたら死んでしまうかも知れないのに。僕は何もできないままなのか?

 兎狩が溜息を吐いて、ボールペンの先を復元さんに向ける。


「警告したぞ」

「あ、あぁあ……」


 僕は絶望する事しかできない。殺される。殺されてしまう……と思ったけど、復元さんには何も起こらない。兎狩は二度、三度とボールペンで宙を突いて、何も起こらない事を再確認すると、小さく舌打ちして僕を睨んだ。


「お前のフォビアか!」


 そんな事を言われても、僕は自分のフォビアの能力を知らないから、何とも答えられない。そうなのかも知れないと思うだけだ。


「おい、瀬峨せが! 姿が見えているぞ!」


 兎狩は続けて、僕の右側に目を向けて叫んだ。振り向くと、そこには背の低い男性がいる。この人もフォビアなのか? 最初から二人一組だった?

 場が混乱している。僕も「敵」も。そうこうしている間に、復元さんが立ち上がって言う。


「さてさて、面白い事になったな。お得意のフォビアが使えない訳だ」

「……今回は引き下がろう。だが、諦めた訳ではないぞ、篤黒勇悟」


 兎狩は瀬峨に視線で合図を送り、じりじりと後退して曲がり角で姿を消す。

 僕と復元さんは安心して、同時に溜息を吐いた。


 復元さんはもう傷の痛みを感じていないのか、それとも我慢しているのか、平然とした態度で僕に話しかける。


「やれやれ、初日から災難だったな、新人くん。怪我とかしてない?」


 そう言われて、僕は自分の左膝の状態を改めて確かめた。もう痛みは完全に消えているし、傷口も塞がっている。ただスラックスに1mmぐらいの小さな小さな穴が開いていて、周りに血が染み込んでいるから、傷を負ったのは事実だ。注射みたいに受けた瞬間が痛いだけで、思ったより軽傷だったんだろう。復元さんも出血の割には元気そうだし。


「膝をやられたんですけど……治ったみたいです。他には別に……」

「それは良かった。じゃあ、行こうか」


 そう誘いかけてくれた復元さんだけど、僕は復元さんの赤く染まったスーツが気になる。余りにも目立ち過ぎる。

 僕の視線に気付いた復元さんは、苦笑いした。


「ああ、まだ名乗っていなかったね。俺は復元治己、F機関のフォビアだよ」

「篤黒勇悟です」


 復元さんは僕の事を知っていそうだったけど、僕も礼儀として名乗る。……いや、そうじゃなくて。僕が気にしているのは復元さんの服の方だ。

 まだ怪訝な顔をする僕に、復元さんは言う。


「俺の怪我なら心配ご無用。俺のフォビアは簡単に言うと『回復』だから」

「あ、はい」


 いや、そうでもなくて。


「あの、復元さん。服は大丈夫ですか?」

「ん? この服? ははぁ、全然大丈夫じゃないね。でも平気平気。戻ったらすぐ着替えるよ」

「そ、そうですか……」

「早く行こう」


 この人は細かい事を気にしない性格なのかな……。いや、今はどうする事もできないから、気にしないだけなのかも。まさか服を脱ぎ捨てる訳にもいかないだろうし。思い切りが良いと言うか、肝が据わっていると言うか、羨ましい性格だ。

 僕は復元さんの後を歩いて、久遠ビルディングに向かう。久遠ビルディングの場所は分かっているんだから、本当は僕が復元さんの前を歩いて、血の痕が目立つ復元さんの服を少しでも隠すべきなんだろうけど、そこまでは考えが回らなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る