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次の日の朝、僕は気まずい思いをしながら朝食を取った。きっと父さんと母さんも気まずかったと思う。
朝七時に父さんが仕事に出かけて、家には僕と母さんの二人だけ。今日も裕花は家に来ない。火事に巻き込まれてしまった事を気にしているんだろうか? あれは裕花のせいじゃない。僕が死に急いでしまっただけの事なのに。
そして午前十時、我が家に来客があった。ピンポンとドアチャイムが鳴り、母さんが玄関のドアを開けて応対する。
「どちら様でしょうか?」
僕は陰からこっそり様子を窺った。
お客さんは眼鏡をかけてスーツを着た中年の男性だ。身形が整っていて、しっかりした印象を受ける。その人はドアの前で丁寧に名乗った。
「篤黒様。ワタクシ、ウエフジ研究所の
「そ、そうですか……」
母さんは返事に困っている。元々話を聞かずに断るという事ができない人だ。先方に失礼が無い様に、聞くだけ聞こうとするだろう。
「どうぞ、お上がりください」
「失礼します」
母さんはドアを開けて浅戸さんを迎え入れ、客間に案内した。
僕は忍び足で客間のドアの前に移動して、聞き耳を立てる。耳はそれなりに良いつもりだ。……客間の中から、かすかに声が聞こえる。
「確認のためにお伺いしますが、あなたが勇悟様のお母様?」
「はい」
「お父様はお仕事ですか?」
「ええ」
「では、お母様に先にご説明いたしましょう。昨日郵送した資料はご覧いただけましたか? ウエフジ研究所は人の心の働きを研究する機関です。その範囲は社会学から医学まで多岐に亘ります。当研究所は国の認定を受けた指定研究機関であり、公的にもワタクシ共の活動に高い評価をいただいております」
「はぁ……」
多分、母さんは警戒している。ウエフジ研究所なんて聞いた事もないはずだから、仮に浅戸さんの言っている事が本当でも、そう簡単には信じないだろう。
「ワタクシ共が勇悟様をスカウトした理由ですが……。お母様はご存知でしょうか? 勇悟様には特別な才能がございます。一般的には認められていませんが、ワタクシ共にとっては重要な能力です」
「それは……何でしょうか?」
母さんの声が真剣になった。ここで情報の真偽を見極めようとしている。浅戸さんは何と答えるんだろう?
「正直に申し上げますと、勇悟様は重度の精神疾患を抱えている状態です。先日、火事で勇悟様が研究所に運び込まれた際に、身体面の健康と同時に、精神面の健康も診断いたしました。こちらが診断書です」
母さんは何も言わない。きっとショックを受けているんだろう……ってか、僕もショックだよ。世間的には病人なのか?
長い沈黙の後に、やっと母さんは言葉を発する。
「……この『E.A.D.I.D.』とは何ですか?」
「『共感性不安障害伝播症』の略称です。世界的にも症例が少ないので、普通の病院では単なる不安障害の一種として扱われてしまいますが、幸いにもワタクシ共は、この難病を専門的に取り扱っております。勇悟様には、この難病を治療しながら当研究所で勤務していただきたいのです」
「それは治験とか、そういう事ですか?」
「いえ、治験ではありません。新しい治療法を試す訳ではないのです。共感性不安障害伝播症はサヴァン症候群の様に、有用な一面を持っています。治療という表現も便宜的な物であって、疾患と上手に付き合い……日常生活に支障が無い程度の回復を目指しながら、その能力を当研究所で活かしていただきたいのです」
「あの……私だけでは判断できないので、夫にもお話を……」
「はい、そのつもりでお伺いしました。何時頃にご帰宅されますか?」
「夕方の……六時以降なら確実だと思います」
「承知しました。では、改めてお伺いします」
話が終わりそうな気配を察して、僕は素早くドアの前から離れる。
浅戸さんが一旦帰って、母さんは重苦しい溜息を吐いた。この場を凌いだ安心と、この先を思う憂鬱の混じった複雑な感情が読み取れる。
多分……多分だけど、父さんも母さんも断らないだろう。僕は精神疾患持ちというレッテルを貼られた。就職にも進学にも不利になるだろう。他に選択肢は無いという訳だ。全部計算通りなんだろう。これが大人のやり方か……。
僕は事が希望通りに進められているのとは反対に、将来に不安を抱く。
その夜、父さんが帰って来てから、改めて浅戸さんが訪れた。話し合いは父さんと浅戸さんの二人だけで進められる事になって、僕と母さんはただ話が付くのを待つだけだった。僕は母さんに監視されて、盗み聞きをしに行けない。
約二時間後の午後八時、浅戸さんが先に客間を出た。母さんが玄関で浅戸さんを見送った後、父さんが客間から出て来る。その時に僕は父さんと目が合った。父さんは疲れた顔で僕を見ると、何も言わずに顔を背けて台所に移動して、一人で先に夕飯を食べ始めた。僕と母さんも、台所で合流して三人一緒にご飯を食べる。父さんも母さんも無言で、また重苦しい空気。
「父さん、僕が就職するって話は……」
僕が思い切って聞いてみると、父さんは真顔で答える。
「お前の好きにしなさい」
その諦めたかの様な言い方に、僕は悲しい気持ちになった。
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