就職
1
僕が家に帰った時間は、午後の三時。すぐ帰ると言って朝に出かけながら、正午を大きく過ぎてしまった。思い付きでF機関を訪ねたのが良くなかった。
「ただいま」
誰にも聞こえなくても良いかという雑な気持ちで、小さな声で帰宅を告げる。意外な事に母さんが聞いていて、早足で玄関まで駆けて来た。
「何してたの! すぐに帰るって言っておいて!」
母さんの必死の形相に僕は気圧される。
「ごめん、お昼前には帰るつもりだったんだけど」
「今、何時か分かってるの!? 何かあったって思ったじゃない!」
「何かって」
そんなに心配しなくても大丈夫だよと僕は言いたかったけど、最近まで引きこもっていた奴が、急に外に出かけて帰って来なかったら、心配になるのは当然だ。僕は母さんに心配をかけさせてしまった事を反省した。
「……ごめんなさい」
母さんは一度深呼吸をして心を落ち着けると、改めて僕に聞いた。
「それで、どこ行ってたの?」
「あの火事の跡を見に……」
「こんな時間まで?」
ついでにウエフジ研究所に寄って行った事を話すべきか、僕は迷った。そこが何をする所か知らない母さんは、ますます不審に思うだけだろう。とても理解は得られそうにない。
僕が何も言わないでいると、母さんは小さな溜息を吐いて、僕から離れる。
「何にしても無事で良かった。お昼は?」
「食べてない」
「そう。今、温めてあげる」
僕は母さんの後を歩いて、台所に移動した。今日のお昼ご飯は、白米と味噌汁と春野菜の炒め物だ。電子レンジでご飯を温めている間、僕は就職の話をしようか考えていた。
上澤さんは「任せてくれ」と言っていたけれど、いきなりだと父さんも母さんも戸惑うに違いない。先に僕から話をしておくべきなんじゃないかと思った。
電子レンジがピーピーと鳴って、温め終わった事を知らせる。母さんは熱いご飯をレンジから取り出して、テーブルに並べながら僕に言った。
「外に出られるくらい元気になったんだね。勇くん、いつまでもあのままだったら、どうしようと思ってた」
さあ食べようとしていた僕は、気まずさから口を閉ざす。一度止めた手をゆっくり動かして、僕はご飯を口に運びながら言った。
「母さん……僕、就職するかも知れない」
「シュウショク?」
「仕事だよ」
「何で? 学校はどうするの?」
母さんの声が少し険しくなる。僕が高校を中退して、中卒で就職する事に抵抗があるんだろう。子供に普通の人生を送ってもらいたいという母さんの思いは分からなくもない。それでも僕は決めたんだ。
「やめる……」
「やめるって! そんな簡単に言わないで」
僕は反論せずに黙々とご飯を食べた。
母さんは一時の気の迷いだと思っているかも知れない。だけど、そうじゃない事は近い内に分かる。重苦しい沈黙の中で食べるご飯は、なかなか喉を通らずに詰まるみたいでおいしくなかった。
翌日、ウエフジ研究所から封筒が届く。その夜、僕は父さんと母さんにリビングに呼び出されて、家族会議に参加させられた。
まず父さんが重々しい声で言う。
「これは何だ?」
「就職の同意書……」
「どうして勝手にこんな事をしたんだ?」
「……どう言ったら良いか分かんなかったから」
それは本当だ。超能力とかフォビアなんて言ったって、信じてもらえない。
父さんは深く長い溜息を吐いた。感情の高まりを抑えようとしているのは、見ているだけでも分かった。
「お前はまだ十五なんだ。成人しているならお父さんも何も言わないが、就職なんて早いだろう」
「父さんは反対なの?」
僕は単刀直入に尋ねた。すると、父さんは不機嫌な顔で答える。
「賛成とか反対とか、それ以前の事だ。お前が何を考えているのか、親としてきちんと理解して、納得してから認めたい。間違っているか?」
「間違ってない……と思う」
「『思う』は余計だ。今ここで自分の考えを言ってみなさい。その場の勢いだとか、思い付きで決めたんじゃないなら、言えるはずだ」
僕は二度、大きな深呼吸をした。説明をすれば分かってもらえるのか、緊張する。
「僕は普通の生活はできないと思ってる」
第一声に対して、父さんは何も言わなかった。僕の言葉が尽きるまで待っているつもりだ。僕は頭と心を整理しながら続ける。
「今まで、はっきり言った事は無かったけど……察してるとは思うけど、
実際にそれを口にしたのは初めてだった。思ったより、すんなり言えた。
父さんも母さんも驚いた顔をしている。僕は再び深呼吸をした。胸が苦しくならない様に。
「中学校の卒業式の日、アキラは僕の目の前で死んだ。僕は落ちて来るアキラを見ているだけだった」
息が詰まる。悲しくはない。涙も出ない。だけど、呼吸が難しい。まるで溺れているみたいだ。僕は何度も深呼吸をして、息を整える。
「僕は彼の事が忘れられない。彼を忘れて、幸せにはなれない。彼が行けなかった高校に行って、何も無かった様に過ごす事なんかできない。僕は卑怯な人間で、生きている価値も無い。でも、ここでなら働けるかも知れない」
僕は言い切った。これだけが、今の僕に言える全てだった。
父さんは目を閉じて一呼吸置いた後、静かに言う。
「分かった。お前の本心が聞けて良かった。でも、就職は認められない」
僕は落胆したけど、そこまでショックは大きくなかった。そもそも自分の拙い言葉で両親を納得させる自信は無かった。後の事は、F機関の人に任せよう。誰が説得に来てくれるかは分からないけど、大人の理屈で答えてくれるだろう。
俯いた僕に父さんは説教を始める。
「良いか、勇悟。人生には出会いがあれば別れもある。その中で不幸な事もあるかも知れない。だけど、その度に立ち止まっている暇は無いんだ。若い時は自分の身の回りの事が世界の全てだと感じるだろうが、それは間違いだ。長く生きていれば、何度も経験する事なんだよ」
分かってないなぁ……。そうじゃないんだよ、父さん。父さんは自分のせいで誰かを死なせた事があるのかい?
僕は俯いたまま、苦笑いして首を横に振った。もう僕から父さんに言える事は何も無い。僕は席を立って、自分の部屋に引きこもる。父さんが呼び止めても聞かない。これは僕なりの反抗だ。
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