3

 僕は灰色のスウェットに青いジャージの上着という、ファッションセンスの欠片も無い格好で、白いスニーカーを履いて、富士裕花が待つ外に出た。

 引きこもってばかりいたから、正確な日付は分からないけれど、五月の中旬という事は分かってる。よく晴れて、寒くも暑くもない、絶好の散歩日和。

 僕は何年も外の空気を吸っていなかった様な気分で、大きく息を吸い込んだ。そして裕花を見詰める。


「どこに行くの?」

「山側の公園に行こう。あそこ、人が少ないから」


 裕花の発言を僕は怪しんだ。


「人が少ないと何?」

「人の多い所が良いの?」

「そういう訳じゃないけど」

「じゃあ良いじゃん」


 地元の同級生と鉢合わせると僕が気まずい思いをするからと、気遣ってくれているんだろうか? それとも彼女自身が僕と一緒にいる場面を誰かに見られたくないんだろうか?

 僕が考えてもしょうがない事を気にしていると、裕花が神妙な顔をして言う。


「……話したい事があるからさ」


 重要な話なんだろうと察した僕は、何も言わずに彼女の後ろを歩いた。


 公園までの移動中、僕は裕花の話とは何なのかという事ばかり考えていた。

 当然、いくら考えても答えなんか出やしない。僕は自分でも呆れる程に無知で無能で頭が悪いんだ。だから、あの時何をすべきだったかも、今何をすべきかも分からない。こんな人間は何かに悩む価値すら無い。

 僕は思考を放棄して、ただ愚直に裕花に尋ねる。


「裕花、話って何?」

「どうしても聞いてもらいたい事。言っちゃっても大丈夫か分からないけど、今のままだと、ゆーくんダメになっちゃうから」


 本当に何を言われるんだろうと、僕は不安になった。

 いじけてばかりの僕を責めるんだろうか? まさか今更激励の言葉で立ち直ると思ってなんかいないだろう。ああ、後ろ向きな考えしか浮かばない。

 ……っていうか、まだ「ゆーくん」呼びなのか……。そりゃあ昔はお互いに「ゆうちゃん」「ゆーくん」って呼び合ってたけど。中学の時にはもうそんな風に呼ばれた覚えが無いぞ。本当に君は何なんだ?


 その内に僕と裕花は近所の公園に着く。古い公園だからか、休日にもかかわらず人の姿が全く無い。ジャングルジムも雲梯うんていも回旋塔もブランコも、赤字で大きく使用禁止と書かれた紙が貼られている。撤去にもお金が必要だから、誰にも使われない公園の遊具はそのまま放置されるんだ。

 僕が一人で勝手に公園の哀れな遊具達にシンパシーを感じていると、裕花が大声を上げた。


「あっ!!」


 どうしたのかと思って僕は裕花に目を向けた。

 裕花は両目を見開いて口元を押さえ、公園の隣の民家を見詰めている。その視線の先にはもうもうと黒煙が立ち上っている。


「えっ!?」


 僕も思わず声が出た。同時に出かける前にテレビで見たニュースを思い出す。――火事だ。放火事件。すぐにそれを連想した。

 裕花は僕に問いかける。


「どうしよう!?」

「ど、どうって……」

「救急車、警察!? どっち!」


 裕花はスマートフォンを取り出しながら、僕に聞いて来る。

 僕は動揺しながら答えた。


「しょ、消防じゃない?」

「それだ! 消防って何番!?」

「1、1……9?」

「それ、救急車じゃなかった!?」

「消防も同じ! 確か!」

「あ! そうだった気がする!」


 僕と彼女がパニック状態でわちゃわちゃ言い合っていると、公園に一人の女の子が駆け込んで来た。見た目10歳前後の女の子は、上下ともパジャマみたいな裾長の青っぽい服を着ている。余り見ない格好だから、僕は不審に思ってジッと女の子を見ていた。

 次の瞬間、女の子が振り向いて、僕と目が合う。女の子は驚いた顔をして、公園内に置かれたボロボロの公衆トイレに逃げ込んだ。

 僕が危ない人に見えたんだろうか?

 少しショックだったけど、今はそんな場合じゃない。火事の方が問題だ。

 裕花は消防に通報している最中。


「火事、火事です! 場所は山の上の、えっと……北公園です!」


 ……それで、僕には何ができる? 僕は何をすれば良い?

 焦りが僕の心を蝕んで行く。ここでも僕は役立たずなのか!

 自分の情けなさが嫌になる。高校生のくせに引きこもってばかりいたから、スマートフォンも持っていない。

 泣きそうになっていた僕の目の前で、公園のトイレから火の手が上がった。


「何、何が起こった!?」


 突然の事に驚き過ぎて、涙は引っ込んだ。木造の公衆トイレからもうもうと黒煙が噴き出している。

 裕花が甲高い声で叫ぶ。


「いけない! 中に女の子が!」


 急展開に僕の頭は上手く回らない。公園の隣の民家から煙が上がって、更に公園のトイレも燃えて、一体何がどうなって、こんな事になっているんだ? いや、そんな事を考えている場合じゃない。目の前で燃えているトイレの中には女の子がいる。

 僕も裕花も女の子がトイレから出た瞬間を見ていない。


「ど、どうしよう、ゆーくん……」

「どうしようって……」


 常識的に考えて、どうしようもない。高温の煙が充満している小さな木造の建物に飛び込めば、高確率で死ぬ。もしかしたら、僕達が少し目を離していた隙に、女の子が脱出していたりしないだろうか?

 僕は卑怯にも希望的観測に逃避した。その可能性が低い事は理解している。

 結局、僕は自分が死にたくないだけじゃないか? どうして、そこまでして生きなきゃいけないんだ?

 僕には何も答えられない。考えたってしょうがない。僕は全てにおいて価値の無い人間なんだから。惜しむ命もあるもんか!


「俺が見て来る」


 僕は開き直って覚悟を決めた。


「見て来るって……」


 裕花は僕が炎の中に飛び込むなんて想像もしていない様だ。


「大丈夫だから」


 何も大丈夫じゃないんだけど、僕は強気に言ってみせた。

 死ぬかも知れない。でも、人助けで死ねるなら、何の希望も無くクズのまま生き続けるより良い。


 僕は炎上するトイレに向かって走った。

 トイレの上半分は完全に黒煙に覆われている。念のためにトイレの外周を見てみたけど、正面以外に出入りできそうな場所は無い。

 トイレから数m離れていても、凄い熱気が伝わって来る。素肌を晒している顔や手が既に熱を帯びている。無策で突入すれば、一分と持たない。死んだっていいとは思っているけれど、何もできずに死にたくはない。

 僕は辺りを見回して、水道を探した。幸い、トイレのすぐ近くに蛇口があるのを発見する。僕は蛇口に駆け寄って、水を全開で垂れ流し、思いっ切り頭から被る。

 水道がまだ生きていて良かった。運がある。

 振り返ってトイレに目をやると、既に火の手が屋根にまで回り、大炎上している。遠くで裕花が何か言っているけど、聞こえない。聞いている暇は無い。

 僕は全身ずぶ濡れになって、燃え盛るトイレに突入した。服も靴も大量の水を吸っていて体が重い。でも、これなら炎の中でも少しは耐えられると思う。

 より煙が濃いのは女子トイレだ。そこに女の子がいると判断して――いや、直感して進む。

 高熱の空気に肺を焼かれない様に息を止め、煙に視界を遮られない様に、両手を床について姿勢を低くする。汚いだとか考えている余裕は無い。

 木造なのは外見だけで、トイレの内装はタイルとコンクリートだから、まだ焼け落ちるまで時間はありそうだ。

 熱と煙で目が乾いて痛い。とても目を開けていられない。僕は目を閉じた状態から僅かに開いて、人影を探す。ぼうぼうと激しい燃焼音の中、かすかにすすり泣く声が聞こえる。

 僕はとにかく声の方に向かって移動した。そして端っこの個室の隅でうずくまっている女の子を発見する。

 良かった。いや、良かったと言って良いのか? まだ危険な状況には変わりない。

 僕は女の子に近寄って、ゆっくり手を伸ばした。女の子は顔を伏せていて、少しも反応しない。僕は息を止めている状態だから、声をかける事もできない。

 僕の指先が女の子の足に触れると、女の子は初めて反応した。僕も女の子も少しだけ顔を上げて、お互いの目が合う。

 助けに来たよ。一緒に出よう。冷静に話ができるならそう言いたかったんだけど、女の子には伝わらない。身を縮めて、僕の手から逃れようとする。

 あのさ、僕の事を怪しいと思うのは勝手だけど、今の状況を理解してくれ。それとも僕なんかに助けられるくらいなら死んだ方がましとか、そういう考えなのか?

 だけど、僕もここまで来た以上、自分だけ引き返す選択なんか無い。僕は更に手を伸ばして、女の子の腕を引き寄せた。

 瞬間、天井が崩れ落ちる。僕は女の子だけでも守ろうとしたけど、間に合わない。焼け焦げた瓦礫が体の上に落ちて来る。

 避け得ない事象。頭、腕、脚、腰、背中……全身に瓦礫が直撃する。痛い、重い、熱い、苦しい、死ぬ!

 死を前にして、僕は目の前の女の子と、自殺した友人を重ねていた。

 ああ、僕はまたしても目の前の人を助けられない。僕は無力だ。何もできない。


 絶望感と無力感に支配されて、僕は全てを諦めた。これが僕の限界なんだ。極限の苦しみの中で、僕は諦観していた。

 どうして彼は死ななければいけなかったのか? 僕が無力だったから?

 違う。僕も、担任の先生も、クラスメイトも、彼の両親も、彼自身も。皆が無力だったんだ。

 人が誰かを助けられるなんて幻想だ。だから、父さんも母さんも、裕花も、僕自身でも、僕を立ち直らせる事さえできなかった。人が何人集まろうが、できない事はできないんだ。世界は広くて大きいのに、僕達は余りにちっぽけ過ぎる。


 今までの苦しみが嘘の様に、すっと熱と痛みが引いて行く。

 ああ、僕は死ぬんだな。父さん母さん、裕花も、どうか悲しまないで。誰も何も悪くない。だって、僕達は無力なんだから。

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