2

 その日も僕は早起きしていた。引きこもって数日は何も考えたくなくて、ほとんど眠るだけだったけど、だらしない事に僕の体は空腹には勝てず、何もせずにご飯を食べて寝るだけの生活を繰り返していた。……今も変わらない。

 僕は僕が嫌いだ。僕は人間のクズだ。どうせ何もできないくせに、両親の優しさに甘えている。このままではいけないと分かっている。でも、何かをしようとすると、彼の顔が思い浮かぶ。同時に憎らしい転校生の顔も。

 そうすると色んな事が一度に頭の中を駆け巡って、何も考えられなくなる。心臓がドクドクと暴れ出して、頭の中がカーッと熱くなって、息苦しくなる。そして、恐ろしさと恥ずかしさと申し訳なさをぐちゃぐちゃに混ぜて究極に煮詰めたような感覚に襲われて、今度は体が冷え切って震え出し、死にたくなる。

 何度も立ち直ろうとしたけど、ふとした事で思い出して、台無しになる。思い出さないようにする事なんかできない。忘れちゃいけないんだ。

 きっとこれは罰なんだと思う。父さん、母さん、ごめんなさい。僕に勇気が足りなかったばかりに、僕がまともな人間じゃなかったばかりに、僕は友人を死なせて、父さんと母さんも不幸にしてしまいました。

 僕を名前で呼ばないでください。勇悟なんて名前は、僕には過ぎたものです。



 カーテンを閉め切った薄暗い部屋で、一日中ジッとしていると、頭がおかしくなりそうだ。今は何月何日だとか、何曜日だとか、何時頃だとか、時間の感覚も無くなってくる。

 このまま狂ってしまえたら楽なのにと思うけど、父さんと母さんに迷惑はかけたくない。頭のおかしい息子を養うなんて地獄だろう。早く死ななくちゃ。でも、死んで楽になって良いんだろうか? このまま惨めに一人で苦しんでいた方が、罰には相応しい気もする。


 暗く沈んだ気持ちで、着替えもせずにベッドの上にぼんやり座っていると、階段を駆け上がる音が聞こえた。

 ああ、また来たのか。もう来なくて良いのに。

 足音の主は僕の部屋の前で止まり、呼びかけながらノックをする。


「ゆーくん、朝だよ」


 僕を気遣う優しい声。その正体は僕の友達だった女の子。保育園に上がる前から知っている、近所の子。名前は富士ふじ裕花ゆうか。いわゆる幼馴染みと言うんだろうか? とても優しい子だ。落ち込んでいる僕を何度も励ましてくれた。今でも、こうして学校に行こうと誘ってくれている。ほとんど毎日。

 でも、もう良いんだ。やめてくれ……。

 そもそも僕達はそこまで親しい間柄じゃなかったはず。幼・小・中・高と偶々同じ所に通い続けていたけど、こんなに気遣ってくれるようになったのは、高校に上がってからじゃないか? 同情のつもりなのか……いや、それが悪いと言う気は無いんだけども。どうしてなんだ?


「ゆーくーん?」


 コンコンと裕花のノックは続く。今までの様に反応しなければ諦めるだろうと、僕は沈黙を貫いた。

 早く僕の事なんか忘れてくれ。僕と関わっても何も良い事なんか無いんだ。

 そう念じていると、ガチャリとドアのロックが外れる音がした。


「えっ!?」


 想定外の事態に、僕は思わず声を上げてしまった。

 いやいやいや、あり得ないよな? 合鍵作ってもらったの? そこまでする?!


「お邪魔します!」


 裕花はちょっと怒ったような声で、バンと僕の部屋のドアを開けて、ずかずかと室内に侵入して来た。


「ゆーくん、いるなら返事してよね!」


 そしてそのまま、驚いて固まっている僕の隣にボフッと座り込む。

 ふわりと甘い香りが匂う。

 シャンプーの匂いなのか、それとも香水なんか使う様になったのか、こんなに接近したのは初めて――いや、五年振りぐらいだから分からないけれど、今まではそんな事は無かったと思う。

 彼女は僕を見詰めている。僕は彼女と目を合わせられない。

 ……恥ずかしい。異性だからとかじゃなくて、人間として恥ずかしい。合わせる顔が無い。この空気に耐えられない。

 僕は彼女から離れるために、彼女を拒絶するために、恐る恐る声を出す。


「……学校なら行かないから」


 僕は何て身勝手で情けない男なんだ。

 自己嫌悪に陥る僕を見て、裕花は小さく吹き出した。


「フフ。あのね、今日は土曜日だよ?」

「あっ、えっ」


 よく見ると、裕花は青いパーカーに、白い靴下、灰色のミニスカートを身に着けていて、学校の制服姿じゃなかった。プリーツスカートで、上着もパーカーで隠れているから、ちょっと紛らわしい格好だけれども。

 引きこもってばかりだったから、曜日の感覚なんか無くなっていた。僕はまた恥ずかしくなって俯く。こんなの恥の上塗りだ。消えてしまいたい……。

 いや、学校が休みなら、どうして彼女は僕に会いに来たんだ?

 ふと浮かんだ疑問に答えるように、裕花は言う。


「もしかしたら、学校じゃなかったら行けるんじゃないかって思ってさ」


 僕は納得すると同時に、申し訳なくもなる。

 そうじゃないんだ。学校が嫌だから行きたくないんじゃない。何をしていてもダメなんだ。僕は幸せになるべきではないし、些細な喜びでも感じる資格は無いと思っている。

 この心の苦しみを裕花に伝えたいけれど、分かってもらえるか分からない。否定されたらどうしようと考えてしまう。くだらない、しょうもないと言われたら。僕はくだらない、しょうもない人間なのか……? それは否定できないけれど。世の中の人達は、こんな事は何でも無いかの様に克服しているんだろうか?

 やっぱり僕はでき損ないの人間なんだ。正しい事が何一つできない。

 僕の気持ちと思考は水に沈む石の様に、深く深くネガティブに落ちて行く。


 裕花は何も言わない僕から視線を外して、室内のテレビのリモコンを取り、テレビの電源を入れた。

 僕の部屋にはテレビがある。ここ一ヶ月は見ても触ってもいないから、埃を被っているけれど。

 薄暗い静かな部屋で、テレビだけが明るくうるさい。画面に映っているのは、朝のニュース番組だった。


「また放火でしょうか? 昨日未明、H市内の住宅地で、三棟が全焼する火災が発生しました。幸いにも住民は全員避難して無事でした。火元はAさん宅の庭先。Aさんの証言では火種となるような物は無かった事から、警察は何者かが放火したのではないかと見ています。先週からH市内で三件目の火災。警察は同一犯による連続放火事件の可能性も含めて、捜査を進めています」


「うわ、近所じゃん。怖いね」


 裕花の態度は言葉とは裏腹に軽い。

 そんなものだろう。いきなり自分の身に不幸が降りかかるなんて、誰も予想していない。実際に起こって、初めて本当の恐怖を知るんだ。


「まあそれはそれとして、外に出ようよ。良い天気だよ」


 裕花はそう言いながら立ち上がり、サッと僕の部屋のカーテンを開ける。

 眩しい。朝の陽射しが差し込む場所に窓を置いた家の設計が恨めしい。きっとそれは気遣いの結果なんだろうけど。

 長らく浴びていなかった太陽光に、僕はきつく目を閉じる。引きこもりには強過ぎる刺激だ。瞼の裏がチカチカする。吸血鬼はこんな感じで太陽に弱いんだろう。


「体調も良さそうだしさ。ほらほら、さっさと着替えて」


 裕花は優しい声で僕を急かす。

 ……君は何も分かっていない。僕は外に出るのが嫌なんじゃない。体調が悪いから外に出ない訳でもない。

 家から出れば、良い事がある。そんな事は分かっているんだ。でも、僕は薄情者だから、楽しい事や嬉しい事があると、彼の事を忘れてしまう。その後に浮かれていた自分を客観視して、どうしようもなく嫌な気分になってしまう。

 そうなったら立ち直れない。そんな僕の惨めな姿を見られたくない。今も十分惨めだけれど、これ以上は……。

 だからって子供みたいに駄々を捏ねるような、形振り構わない真似もできない根性なしの僕は、いじけた態度で彼女に言う。


「出るったって、何しに出るんだよ……」

「何だって良いじゃん、そんなの。何かしても良いし、何もしなくても良い」


 裕花は本当に本心から親切で言っているんだろうか? 僕には分からない。第一、こんなに親切にされる覚えがない。

 おかしいのは僕なのか、彼女なのか? それとも父さんや母さんに何か言われたんだろうか?


 僕は裕花を怪しみながら、どう対応するべきか考えた。

 今日の彼女は簡単には引き下がらない気がする。無気力な僕では、今の彼女には抗えそうにない。しょうがない。これはもう運命なんだ。僕が無様を晒しても、失う物は何も無い。失望するならするが良い。

 僕は投げやりな気持ちで、彼女に従う事にした。


「分かったよ。少し待ってて。着替えるから」

「じゃ、外で待ってるね」


 裕花は意外にあっさり僕の部屋から出て行った。

 一時的に彼女を追い出した僕は、何度も深呼吸をする。

 できるだけ心を落ち着けて、深い海の底のように、暗く静かに低く保つんだ。彼の事を忘れなければ、僕の心は浮かれない。


「――近所に住むCさんは、事件現場から走り去っていく小さな女の子の姿を目撃したという。我々取材班は――」


 僕はリモコンに手を伸ばし、虚しい独り言を続けるテレビの電源を切った。

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