第3話 殺し尽くす魔法

 男が懐から取り出した二枚のカードは、それぞれ全く異なる印象を与える絵柄が刻まれていた。


 一枚は白いカーテンのような何かが描かれている。

 もう一枚は、炎に包まれた黒い大蛇が大口を開けてこちらを威嚇している恐ろしい絵だった。


 野盗は勿論のこと、呪術師ガグズも二つの絵になんら覚えがない。彼らが知らないのは当然のことだった。これらは男が想像の世界で作り上げた存在であり、実体化させるまでに至った魔法のモデルでもある。


「なんだお前。カッコつけてくだらねえカードなんざ見せやがって。舐めてんのか、おい」


 じりじりと距離を詰めながら、野盗の最下層にあたる男が息を荒くして睨みつける。しかし周囲を囲まれようとも、男は動じる気配がない。むしろ先程よりも涼しい顔をして辺りを見回している。


「挑まれたなら、決して拒んではならない。死んだ親父にそれだけは守ってくれと約束させられてな。だから悪く思わないでくれ」


 ガグズの黒き本を持つ手に力がこもる。どんな呪いをかけてやろうかと考えを巡らせていたのに、台座の上に立つ男の微笑で全てが吹き飛んだ。

 なんと禍々しい顔で笑うのだろうか。


「あ、あーーー。あなたは、一体」


 ガグズが問いかけようとした時、男達は既に動き出していた。


「おい! そいつをぶっ殺せ!」


 ボスの号令こそが彼らの全てである。それぞれが持つ剣や槍、ナイフや斧がたった一人を狙っている。一斉に駆け出した野蛮な殺戮者達を前にして、どういうわけか標的となった男は瞳を閉じる。


「きゃああっ! そこのお方。は、早く逃げて!」


 自らも動けない状況で、聖女シエナは勇気を持って叫んだ。この勇気こそが、人生で最後に振るうものになってしまうかもしれないと予感しながら。

 だが目前にいる男は逃げない。奇妙な風が周囲を支配していた。


 血で濡れていた斧が、鋭利なナイフが、鋭く磨かれた剣が、息を合わせたかのように黒い髪の男に降り注ぐ。


 次の瞬間、その男が取った行動はただ、右手を胸の前で払って見せただけ。しかしその一振りで、野盗達は何かに殴りつけられたような衝撃に襲われ、それぞれが宙を舞い吹き飛んでいった。


「ごああ! な、なんだ!?」


 壁に叩きつけられつつも、すぐにボスは立ち上がり周囲を見渡す。ただ空をきっただけの腕振りに、なぜああも吹き飛ばされてしまうのか理解が追いつかない。彼とラグズ以外は唐突な衝撃に苦しみ、立ち上がれずにもがいていた。


「きゃあああ!」


 男の周囲を風が吹き荒んでいる。すぐ背後にいた聖女は、衝撃を浴びたが拘束により動けず、そのまま気絶してしまった。だが、それは彼女にとって幸いだったのかもしれない。


「風魔法ですな。しかし、ここまでの発動の速さと威力とは」


 ラグズは額に汗が浮かび、唐突に現れた男に恐怖を抱いていた。そして今度こそ呪術を発動させようと、聞き取れない発音を繰り返し詠唱を開始する。野盗のボスは老人の行動が悠長に思えてならない。


「ったく、ふざけんなよ。おいお前ら——」


 もう一度ボスが周囲を見回した時、彼は頭の中が真っ白になった。


「んぎぁああああー!」


 大きな大蛇が上から、部下を何人か一気に丸呑みにしているところだった。あまりにも大きく、そして自分達の標的である男のように全身が黒い。

 部下の何人かはその巨大な体に締め上げられて断末魔の悲鳴をあげている。


 だが、よく見れば野盗の男達は食われているわけではない。あたかも食われているかのように、締め付けられているかのように、燃やされているのだ。


 蛇の体は全身が余すところなく燃えていた。本来の炎でない、黒の炎。

 野盗達は苦しみに失神することさえも許されず、生き地獄を味わいながらその生を散らしていく。


「お、おい! おい! なんだよこれ。ジジイ、俺は聞いてねえ。こんな奴とやり合うなんて聞いてねえぞ!」

「運命、でしょうかな。ワシとあなた達が行き着いた運命かもしれませぬ。しかし見事、見事なり」


 ボスは人一倍殺し合いが強く、誰よりも度胸があることで評判だった。生涯一度も自分が臆することなどないと思っていたし、今日この時までは確かに恐怖を知らなかったのだ。

 だが、もう彼は戻ることができない。戦うこともできず腰が抜け、目前に迫ってくる蛇を見つめるだけで精一杯だ。


「あなた様へ、死を」


 ガグズはようやく詠唱を止め、両手を広げて奇声を発した。すると彼の胸付近から、ありとあらゆる怨霊が飛び出し、大蛇を従えた男に向かう。

 取り憑かれた者は遅かれ早かれ悪夢に襲われ、数日以内に必ず死なせる術だった。


 しかし即効性はない。それでもガクズは構わなかった。この一瞬で死よりも恐ろしい体感をしたものは、すぐに自分に懇願してくる。頼むから助けてくれと、どうにかしてこの悪霊から解放してくれと。彼は聞き入れるふりをして、被害者達を更なる地獄へと誘った。


 今回もそうなるはずだ。間違いなく、悪霊達は向かっている。赤い瞳を持つ男は、無表情にこちらを見下ろしていた。

 そんな顔をしていられるのも今のうちだ。ほら見たことか。悪霊は貪るようにあなたの中へ。


「入ら……ない?」


 悪霊達は確かに男へと向かっていた。黒い鎧の中へ潜り込もうともした。しかし、直前のところで誰もが彼を避けるのだ。まるで触れてはならない。決して関わってはいけないものに気がついたかのように。


「ふざけんなあああ! 死ねええええ!」


 老人が絶叫に驚いて声のほうへ振り向くと、ボスが斧を持って走り出しているところだった。辛くも大蛇から逃れたのか、しかし無事とは言えない。体の半分が燃え続けている。男は狂い始めていた。


 自らが行なってきた殺人や犯罪の数々など気にもせず、自分達がされたことには過剰になる。我を忘れたボスは幸運にも、標的のすぐ側まで駆け寄ることに成功する。


 なけなしの力を込めた渾身の一撃。振り上げた右手。斧はほぼ垂直に男の顔面に——


「アルストロメリアが何処にあるか、教えてほしいんだが」


 届くことはあり得なかった。斧が当たる瞬間に、白いカーテンを思わせる魔法壁が出現していた。斧は魔法壁に衝突すると、ひび割れが枝分かれに広がって粉々に消え去ってしまう。


 男が取り出していた二枚のカードの一つ、白い魔法壁はあらゆる攻撃から身を守ってくれる。正体を現した守りの光は、気を失ってしまった聖女をも包んでいた。


「あ……あああ。最初から、勝ち目なんかなかった……」

「あぐあああ!!」


 呆然と佇むボスの背後から、老人の断末魔が聞こえた。しかしそんな声はもう耳には入りそうにない。絶望と虚無感に苛まれたかつての暴君は、膝から崩れ落ちて動けない。


「君に、最後に一つだけ伝えておくことがある」

「……え?」


 ボスは謎の男を見上げた。その瞳は赤く今も恐ろしいが、もしかしたら。この情けない姿に慈悲を覚え、命を奪うことをやめてくれるのかもしれない。


 よく見ればまだまだ若い男ではないか。甘さがあったとしてもおかしくはない。むしろその世間知らずな優しさが残っていることを、彼は期待せずにはいられない。生きてさえいれば、復讐などいくらでもできるのだ。


「後ろを見てみるといい」


 ボスは言われるがまま、素直な子供のように振り返った。カードから姿を現した時よりも大きく、より恐ろしく育った黒き大蛇が、口を開けて彼を飲み込む直前だった。


 最後に希望を与えられ、そしてまた奪われる。ほんの少しの時間で、彼らは世界から消え去っていった。


 ◇


「ん……ぅう。……あら? ここは」


 シエナは静まり返った大広間で、ゆっくりと瞳を開けた。意識が明確になるにつれ、自分が置かれていた状況を思い出してくる。ハッとして体を上げると、自らを縛っていた鎖が全てなくなっていることに気がついた。


「起きたか。随分とお疲れだったんじゃないか」


 唐突に声をかけられ、肩が小刻みに震えた。振り向くと、野盗に襲われていた青年がこちらを見下ろしていた。


「あなたは! ご無事だったのですねっ。その、あの方々はどちらに行かれたのでしょう」

「奴らなら消えた。それより、君に教えてほしいことがあるんだが」


 消えた、という表現は曖昧だったが、どうやら自分は目の前にいる人に助けられたようだ。少女は立ち上がり、小さな肩を震わせていた。


「ありがとう……ございます。わたくし、なんてお礼を申し上げたら良いか」

「いや、別に礼などはいい。それよりアルストロメリアに行きたいのだが。知らないかな?」


 シエナは我慢できずに泣いてしまい、男は表情こそ変えないが困惑していることが伝わってくる。嗚咽で言葉も発せず、彼女は男の手を掴み何度も頷いた。


 やっとのことで声が出せるようになった聖女は、


「はい。アルストロメリアはわたくしの故郷です。ご案内させてください」


 と笑顔で答え、ようやく男を安堵させた。

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