(02-10)それは紙製の月の如し
かくして、事件は幕を下ろした。
天気の良い日だった。
自室で本を並べ替えていたところに、籤雨がやってきた。
「お兄さん、これから出かけるよ」
床にはドストエフスキーとトルストイ、ペレーヴィンの塔があった。あとはこれを適当に本棚に収めるだけだった。邦訳された順番にするか、作者順にするか。以前住んでいた部屋では、手に入れた都度の思いつきでやっていたのだが、新しい部屋で新しい本棚だったから、考える余地は十分だった。
「ぼくの都合は?」試しに訊いてみる。
「忙しいなら良いよ」と籤雨は言う。
前の職場には、拒否権なんてもちろんなかった。今は違う。彼女の態度を見ても、ぼくが選んで良さそうだった。
「行くよ」
「そう?」と籤雨は言って、シャチのポシェットから苺大福を取り出す。一つはぼくに投げて寄越してくる。「これから、鮮梨ちゃんがある人と再会する」
「誰と?」
「彼女が頭痛を求めるに至った元凶だ」
「晴之地ではないんだよな」
「晴之地ではない」と彼女は言った。「実のところ、その人が悪いわけでもないんだ。ただ鮮梨ちゃんが悲しい思いをしただけで、それにしたって振ったとか振られたってわけでもない。今回の事件――と一応は言っておくけれどね――実態としては”現象”の方が正しいんだよ」
ぼくは金属バットのケースを肩にかけて、部屋を出た。
どうでも良いことだが、ちゃんと鍵は閉める。盗まれて困るものも、そうする者がいるとも思わなかったが、それはそれというやつだ。プライバシーは守るためにある。信頼していないから、鍵をかけるのではなかった。小さな儀式みたいなものだった。
籤雨にあとに続いて、寮の廊下を行く。
窓から入る日差しが温かい。
「現象、ね」
「そう。教育実習生の期間が終わり、その人――彼女は去った。鮮梨ちゃんは彼女と仲が良かったみたいだね。で、別れに耐えられなかった、最後の日に、鮮梨ちゃんは学校を休んだ。お別れの言葉を言えなかった、ということだよ。もっとも、言えたとして納得できたのかは疑問だけどね」
「後悔が頭痛の原因になったのか?」
「直接的なところは、知らないよ」と籤雨は素っ気ない。「大体のところは推察だよ。邪推って言っても良い。晴之地が絡んでいたって事実から、筋は通ると思うけどね」
「詳しく」
「鮮梨澄巳は言い訳が欲しかった。本当に体調が悪ければ、学校を休んでも仕方ないじゃないか、とね」
晴之地という少年は、頭痛の素を売り捌くことができる。パニシリン――パニック・シリンダーとかいう、ノック式の蛍光ペンに似た薬品。
「……鮮梨澄巳は、どうなるんだ?」
「どうとは」と籤雨は振り返る。後ろ向きに歩きながら、ぼくを見る。
「今後だよ。〈存在論的頭痛〉とか、クスリを使ったこととかさ」
「物質的には、依存性がないとの報告だ」と彼女は言う。
「煮え切らないな」
「精神的には、わからない。彼女が、お別れを言えなかったその人と再会することで、あえて頭痛になる必要がなくなるなら、
「それを期待してるんだ?」
「当然」と胸を張る。「わたしは、人類に期待している。おおむねのところね。大体、鮮梨澄巳ちゃんは普通の女子高生なんだ。自ら頭痛を招くなんて、そんな自罰的なことから解放されても良い。とはいえ、懸念事項も残るけどね」
「それは?」
「一連の〈存在論的頭痛〉によって、彼女の中に型ができてしまったかもしれないってこと」と彼女は言って、背を向けた。玄関だった。サメ型のスリッパをしまい、靴箱からスニーカーを取り出す。「彼女に動機がなくても、型の方は残るかもしれない。平たく言って、後遺症だね」
「そこだよ」とぼくも靴に履き替えた。「その後遺症って奴は治るのか?」
「そこは、要・観察」と籤雨は答える。
ガラガラと扉を開く。
「鮮梨ちゃんも若いからね。上手く折り合いをつけていけるかもしれない。もしも再発したり、パニシリンを求めて晴之地にコンタクトを取ったり、晴之地の方からコンタクトを取られたり、別の〈存在論的頭痛〉に触発されたりしても――」
それも、ぼくの聞きたいことの一つだった。どうなるんだ。
「――それは、この街で、この世界で、頻発している事象だ。わたし達のできること、やるべきことは変わらない。彼女が苦しむなら、手を差し伸べる。世界の敵に回るなら、引き停める。何度でもね」
「本人が求めてなくても?」
「困っているひとは、見捨てられないんだ」
それは果たして、組織としての言い分なのか、籤雨ラチアという少女の在り方なのか、ぼくは判断に迷った。けれども結局は、保留することにした。どちらでも同じようなものだ。ひとによっては、彼女はお節介な人間なのかもしれない。正義とやらに心を動かされるには、ぼくの
正直に言おう。個人的には、好きにさせてやれよ、と思った。鮮梨澄巳が頭痛を求めるなら、そうさせてやれば良い。それ以上のことを求めても、ご随意に。助けてくれと言われてから、できる範囲のことをする――それでも良いじゃないか。
しかし同時に、ぼくに籤雨を止める権利がないのも事実だった。鮮梨澄巳が好きにするなら、籤雨ラチアにもそうする自由がある。どちらが正しいというものでは、多分ないのだろう。どうなんだ? この街とか世界のために、鮮梨澄巳の自由を奪った方がより良いんじゃないか、とぼくの中の頭痛なら言うだろう。
ぼくにはわからない。
「多分、法律の話なんだろうな」
「それなら」と籤雨は言う。「パニシリンは、認知されていない。非合法的ではあるし、合法でもないけれど、決定的な点では違法じゃないんだ」
「限りなくダークに近いグレー、と」
「そういうことになる」
車が待っていた。
・・・♪・・・
車の運転手が硝子戸だったのだから、驚いた。前回の戦闘で腕を折ったはずだが、実にスムーズに運転をする。車の性能もあるが、どこかの骨が折れているということに慣れているようだった。自体が日常の一部になっている。考えてみると、ぼくは彼についてもまだ知らない。
知らないことばかりだ。
やがてたどり着いたのは川辺だった。
鮮梨は向こう岸にいて、ベンチに座っている。ぼくと硝子戸はその反対側、しかして同様にベンチに座り、ハンバーガーを食べている。通りで車内がそういう匂いでいっぱいだと思ったのだ。
「おまえ、今回なにしてたんだ?」とぼくは尋ねる。
「入院っすよ。折れてますからね」と硝子戸は言いながら、自分の腕を叩く。「とはいえ、人手不足なのも事実です。クジちゃん先輩に言われて、俺は方々走り回りましたよ」
「なんのために?」
「人探しっす」
「鮮梨澄巳の”先生”か」
「そっすね」
彼はバスケットの中から、ハンバーガーを掴む。さすがに包み紙を剥がすのに難儀しているようだった。正義感に乏しいぼくだけど、それを見捨てるほど落ちぶれてもいない。ポテトだけ食ってろ、と言おうにも、籤雨が全部持っていってしまっている。
籤雨は”念のため”と言って、鮮梨の近くに潜んでいる。
確かに茂みはあるが、本当にそこに隠れているのかは疑わしかった。
やがて鮮梨に近づく女性が現れた。
彼女より背は低く、少し猫背だ。
「あれが鮮梨ちゃんの元先生です。元中学教師。現在は塾講師ですね。生物担当です」硝子戸がどのようにして、そういった情報を調べたのかはわからなかった。ぼくが声音を聞くように、職業的な能力を活かしたのかもしれない。
「それにしても、来てくれるもんだな」とぼくは言う。
「会いたがってたとこまでは、同じみたいっすね」
鮮梨はベンチから立ち上がって、挨拶をする。
駆け寄る様子ではなかった。
何か言葉を交わしているようだったが、ぼくらにはよくわからない。
「女の子同士の会話ですからね。おれ達は部外者なんすよ。どこまでいってもね」
世界のために、などと抜かす人間の台詞としては、少し意外だった。
空を巨大な影が通り過ぎていった。
ぼくは思わず目を擦る。
再び見ると、そこには一際大きな雲がある。そこに何かが飛び込んでいったようだが、ぼくにはわからない。
「必要なのは、話題だよ」と帰りの車の中で籤雨は言った。「よくあるように天気の話でも良い。星の話でも、恐竜の話でもね」
「話し相手がいるいないの話だろ。自分のことをわかってくれる相手がいるか、とか……」
「ちょっと違う」
車は進む。
「わたし達は常に危機に晒されているんだ。理解には不可能性が潜んでいる。相手のことを分かった気になることはできるし、お互いに”分かった”って思い込むこともあるけどね」
「本当のところは違う、と?」
「そういうことになる」と籤雨は言って、またシャチのポーチに手を入れる。無限に苺大福の出てくるポーチだ。ちょっと絵面がよろしくない。内臓に見えるのだ。「話題とは、中間に置かれた物事だ。実在するかは問題じゃない。畢竟、お互いのことが理解できなくても差し支えないんだ。そこに何かを置くことが大事でね。机の上に花を飾るみたいなものだよ」
籤雨は言う。
ぼくらが鮮梨に会ったことと、裏で探偵まがいのことをやっていた硝子戸。ぼくらが行っていたことは、このセッティングだったのだ、ということになる。
「……あの二人、なんの話をしてたんだ?」とやはりぼくは訊いてしまう。
「そんなことは知らないよ」と籤雨は言う。
「近くで監視してたんだろ」
「興味がなかった。”その後”の話だからね。」と籤雨は言う。「遥か太古の地層から、翼竜の骨を掘り出すようにして、あの二人は会話を咲かせるかもしれない。咲かせないかもしれない。何かが芽生えるかもしれないし、失われた時を埋め合わせていくのかもしれない。そんなことはどうでもいいんだ」
「おまえはどっちに賭けるんだ?」
「It’s like a paper-moon」
流暢に籤雨は言う。
「それって、紛い物の喩えだろ」
「でも座って歌うことはできるんだ。それが大事なんだよ」
ぼくはそれ以上何かを言うのを諦めた。思いつかなかったのもある。こいつの言う通り、ぼくらはわかり合うことができないと諦めたこともある。しかしちゃんと時は滞りなく進んでいて、今日のこの一瞬においては、頭痛の兆しも見当たらなかつた。
苺大福の抜け殻の底紙は、満月に見えないこともないな、と思ったりした。
第二章 了
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