(02-09.9)雨は選ばない

 勝ち誇るように広げられた翼が、引き攣った。ぼくの視界全天を覆っていた黒い影に、亀裂が入る。今日は曇りだったし、この廃工場の周りには濃い雨が降っている。天気は悪く、日差しは弱い。けれども、それでも十分だった。

 鳥人間の両肩に穴が開く。そこから差し込む明かりに、ぼくは陽の光を感じた。透けるほどに白く、振している小さな手。見紛うことなき、籤雨クジサメの手だった。

 鳥人間は叫び声をあげて、のけぞる。体をよじって、何かを振り払おうとする。しかしそうすることで余計に傷口は広がっていく。亀裂はだんだん大きくなり、やがて決定的なものとなる。ビリビリと模造紙でも引き裂くようにして、黒い翼が破けた。破けてしまえば、後は黒い霧となって散ってしまう。

「騒がしいね」と彼女は言う。

 翼を引きちぎったその手で、彼女は鳥人間の首を掴む。

「よいしょお!」

 そして、投げ飛ばす。5メートルは軽く跳び、銃弾を掴んで投げ返すような女だ。それくらいはする。

 ぼくを押さえつけていた重力が消え、光がどっと押し寄せてくる。相対的な光量に、軽く目が眩んだ。大きく息を吸う。雨と若い花の匂いがした。血まみれの口の中に、新鮮な空気が入ってくる。頭痛に怯えて縮こまっていた脳内に、血が流れ込んでくる。

 ぼくを跨ぐように、仁王立ちになる彼女。

 ダークグレーのシルエットの中でも、赤い稲妻マークがよく見えた。

「お待たせだね、お兄さん」

「遅いんだよ」

「ごめんごめん」と彼女は笑って、手を差し伸べてくる。振動は止まっている。今度はしっかりと掴むことができた。彼女はぼくを起き上がらせる。「ちょうど良い棒が見つからなくてね。ここまで跳んで来るのに時間がかかったんだ」

「跳んで来たって――」

 あの公園から?

「そ。棒高跳びの要領だね。さすがに空は飛べない」

 そんなばかな。

 あの森林公園からこの廃工場まで、かなりの距離があったはずだ。そこを棒高跳びの要領で跳び越えて来たとなると、彼女自身の身体能力だけで説明がつかなくなる。

「ちょうど良い棒ってなんだよ……」

 ぼくの頭はまた違った痛みを帯びはじめた。

 まったく意味がわからない。

 しかし、そう悪くない気分だった。

 彼女はシャチのポーチの口に手を入れ、何かを投げて寄越す。ペルブロイ。

「ここから先は、わたしの番だ。お兄さんはペルブロイそいつって見てれば良い」

 彼女は軽く地面を蹴って、鉄筋の上に登る。

 金属バットから頭痛のコードを取り外す。

 炊飯器とか掃除機みたいに、頭痛のコードはぼくの頭の中に収まる。最後にバチンと音がして、目の中に星が飛んだ。

 ぼく専用の金属バットは、特殊な装備だ。生体認証によってユーザーを特定し、ジェットを噴かす。それでようやく、鹿人間や鳥人間のような怪物に打撃を与えることができる。技術的な詳細はわからないが、その特殊性を発揮できるのは、金属バットが主人と認めたぼくだけという話だった。

 籤雨ラチアは、鉄筋の上で上手にバランスを取りながら、ぼくの金属バットを何度か振る。金属バットは何も言わない。すっかり眠りについている。ジェット孔は開かない。

 けれども、籤雨の腕力をもってすれば、結局は同じことだろう。怪力無双の彼女が振れば、金属の塊というだけで十分な威力を発揮する。

 ぼくは地面に腰を下ろし、鳥人間のその後を見る。そいつは床に転がっており、微動だにしない。しかし、粘性のある黒い靄のようなものが晴れるわけでもなく、そこにわだかまっている。死んでいるのだろうか――そもそも、鹿人間にしてもそうだが、生きているとしたら、の話だ。そもそも生命とはとなってくる。ともかく、脅威は中断されたようだった。

 もっと早く来てくれればよかったのに、とは言わない。

 助かっただけで十分だった。

 ぼくは籤雨を見る。

 今までになく真面目な顔つきで、一点を見つめている。

 その視線の先には、彼女とよく似た少年がいる。

 すう、と息を吸って、彼女は吠える。

「やっと見つけたぞ晴之地ハレノチィ!」

「相変わらず、だな」と彼は言った。「見つかってやった、とは考えないのかな」

 余裕綽々といった様子。

 ぼくは、彼との会話を思い出す。

 世界を危機に陥れる頭痛の話。それを栽培し、収穫し、売買する組織の話。彼――晴之地はその目利きであり、籤雨と同様、他人の頭痛に触れて加工することができる。すべての黒幕。世界を混沌に陥れている者――そして、籤雨ラチアは世界の遍く人々のために、彼を殺すだろうということ。

 煙草に火をつけている場合ではなかった。

 籤雨は、もう一つ二つの鉄骨を器用に飛び移りながら、三階部分まで登る。ハイグラウンド。

 金属バットで、晴之地を示す。

「最後に言いたいことは?」

「アンタにオレは、殺せないよ」

「愛情なら期待するな」

「今更してないよ」

 籤雨が鉄骨を蹴った。金属バットを振りかぶる。

 今すぐこの場でオレの頭をかち割るんだな、と晴之地が言っていたことが思い起こされる。籤雨は、本当にやる気だ。心の中に苦いものが滲む。いくら特権的な奴だといっても、人殺しはマズい。止めなければ、と思った。

 それが法に反するからではない。自分の知る子が罪を背負うのが嫌なのか、とぼくの中の〈存在論的頭痛〉とやらは聞いてくる。そういうことじゃない。直感的に嫌な予感がした。籤雨とは、正しく昨日今日の仲だ。彼女の過去も背景も、どんな事情もよく知らない。だが、逆にそれが問題だった。彼女がどこかで決めてきた覚悟とやらを、ぼくは微塵も知らないのだ。

 共感なんてできようがない。

 自分勝手な理由だ。ただ惨劇が見たくないというそれだけの理由。

 やめろ、と声を出そうとした。

 しかし、届かない。

 晴之地はにやりと笑う。

「――優先順位の問題だ」

 抱えていた女子高生を自分の前に差し出す。

 あろうことか、そいつは鮮梨澄巳を盾にした。

 籤雨は躊躇したように見えた。一瞬の出来事――はたから見ているぼくにはそうでも、籤雨自身には十分な時間――彼女は金属バットの速度を弱めた。

 そのわずかな隙を見て、晴之地少年は笑う。


「アンタは、目の前の人間を見捨てることはできないんだろう?」

 

 そう言って、女子高生を掴んでいた手を離す。

 落下する鮮梨。

 籤雨ラチアは、それ以上迷わなかった。金属バットを捨てて、手を伸ばす。女子高生を軸にして体を丸め、上下を入れ替える。

 その頭上を、黒い物体が通り過ぎた――鳥人間。まだ生きていたらしい。いつの間にか、引きちぎられたはずの翼も元に戻っていた。

 晴之地はそいつの脚に掴まって、そのまま廃墟の開けた空から飛んでいく。

「機会があったらまた会おうぜ、

 晴之地のそういう声が、空の向こうから降ってきた。

 ほどなく彼らの姿は消える。

 

 籤雨は女子高生を抱えたまま、しなやかに着地する。

 黒いドームがぼろぼろと崩れていた。黒い雨のようなものが降っていた。昨日の鹿人間もそうだったように、この異常な空間の主がいなくなったことで、形が保てなくなったようだ。遠目にはベタついて見える雨は、地面に到達するまでに、透き通っていった。廃墟の外を取り巻いていた雨の音も、だんだん柔らかくなっていった。地面の感触は、コンクリートの固さに戻っていた。

 籤雨に近づくが、かける言葉が見つからなかった。

 沈黙が流れる。

 空は暗い。

 頭痛はかなり和らいでいたが、少し息苦しかった。

「籤雨……」

 彼女は、女子高生を床に横たえ、パッと顔をあげる。

「いやあ、逃しちゃったね」

 努めて、明るく。

「でもこの子を取り返せてよかったよ」と言う。「お兄さんこそ、怪我はない?」

「ああ、ぼくは……」

「だったら、次回がある」彼女の言葉には、悔しいものが滲んでいた。「彼も仕事を辞める気はないだろうし、鮮梨ちゃんの〈存在論的頭痛〉はある程度奪われたと見て、間違いない。彼は別の〈存在論的頭痛〉を探すだろうし、売り捌くだろう。世界は狭くなるし、依然として危機であることにも変わりはない」

 自分を納得させるように。

「でもね、この子は助けることができた」

「おまえのやったこと、間違ってないよ」とぼくは言う。

 ろくに知らないくせに、とぼくの中の頭痛は言ってくる。その通りだった。いつの間にか染みついた所業的週間。昨日までそういう仕事をしていたのだ。初めのうちこそ、根拠に乏しいことを口に出すことに抵抗があった。摩耗して消えた、つっかかり。

「そうとも」とすかさず籤雨は言う。不安定な足場を築くような会話だとぼくは思う。「この子自身が、何もかもを諦めて、人を傷つけるかもしれない――そういう可能性からは、守ることができたんだからね」

 ぼくの言いたいことはそういうことではなかった。

 世界の危機だとか、頭痛が誰かを傷つけるだなんてことは、比較的どうでもよい。ただぼくは、目の前の特権的な少女が人殺しになるより、目の前の誰かを守ることを選んだのを正しいと感じたのだ。その選択に、この結果に安心していた。

 自分勝手な話だ。

 けれども――あえて訊くまでもない――籤雨ラチアにとっては、違っていた。鮮梨を助けることができた、という彼女の言葉に嘘はない。

 でも同時に、彼女には、覚悟があったのだ。鮮梨澄巳がいなければ、籤雨は本当に晴之地の頭をかち割っていただろう。それが、もっと広い意味で人々のためになると信じていた。

 籤雨ラチアは特別だ。

 しかし、少女なのだ。

 その細い肩に、世界の危機とやらは重たくのしかかっている。ぼくにはよくわからない重責。想像だに上手くできない概念的なもの。けれども、彼女にとっては現実的な物事なのだ。小さく笑う彼女の肩に、確かにそれが見えた。

 ぼくにはよくわからない。

 世界はあまりに広すぎる。

 でも、彼女はそれを背負っている。どうして、この子がそんなものを背負わなければならないんだ? 特権的だから? 尋常ならざる身体能力があり、頭痛に触れるからか? 納得いかなかった。ふつふつと何かが込み上げてくるのを感じた。

「さ、お兄さん。帰ろっか」と彼女は言う。

「ぼくが背負うよ」

 自分でもなんでそんなことを言ったのか、わからなかった。

 ひょっとすると、ぼくではなく、ぼくの中の頭痛がそうさせたのかもしれない。

「じゃあ頼もうかな」

 ――女子高生の一人くらい、引き受ける。

 全身は痛むが、軽いものだった。

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