(02-09.2)晴之地の理屈
何か変わらなければならないのだろうか。
・・・♪・・・
自分の人生について考えたことは、今まで二、三回ある。少なすぎる? そうかもしれない。
人生について考えたときのことは、覚えている。
必ず、そこには頭痛があった。
かかりつけの医者曰く、ぼくのこれは精神的なものらしい。内科的には問題がなかったからだ。精神的なストレスですね、とのことだった。彼らの診断は、市民の権利である定期検診の結果に付け足され、それを元にメディクテルが処方された。しかし、これはあまり効果がなかったので、ぼくは彼らの言うことを無視することにした。
ぼくが求めているのは聖職者であり、カウンセラーだったのかもしれない。
けれども、非物質的なイデオロギーや大きなストーリーに回収されることに対して、ぼくには不信感があった。この頭痛が、神とやらの与えた試練だというなら、そいつはかなりのサディストということになる。幼少期の思い出だとか、性的な葛藤――たとえば童貞だったことや、実際に比べたこともないくせに、自分の性器の大きさを想像して比べること――そういうことが作用しているのです、と言われても、信じられるわけがない。
馬鹿馬鹿しい。
この頭痛はぼくのものだ。
ぼくの外には存在しない。
もっと根本的なところに、問題があるのだと思った。そういう、自分の抱えている問題について、ノートに書き出したことがある。壁に貼ったこともある。適切に配置すれば、適切な地図ができたのかもしれないが、ぼくはその作業を完遂できなかった。川もなければ、山もない。ランドマークすら見当たらない。ただの散らかった壁が出来上がった。
ジグソーパズルなら、角から攻める方法もあった。けれども、自分の中身については、そんな戦略は通用しなかった。どこが辺縁で、どこがそうでないのか。そもそもそんなものがあるのかも、ぼくには全然わからなかった。
土地勘のなさ。
自分のことなのに、ローカルでない。
訪れるべき場所――それが見つかれば、少しの間は集中することができる。けれども、この「べき」という表現は、一体どこから現れるのだろう。自分の中からではなかった。ぼくの「べき」は必ず社会のリフレクションで、どこかの誰かから借りてきたものに過ぎなかった。
地上の理屈。
自分の中から湧き上がる、スポンテニアスなものとは違う。
結局、解決すべき問題なんて見つからなかった。想念の散らばった壁。ショットガンで頭を吹っ飛ばすと、多分そういうことになるのだろう。頭の中の言葉や想念が壁にビシャリと散らかり、散弾の代わりに画鋲の穴が開いた。
ぼくをこの形に留めているものは、頭痛だ。
望ましい方向に自分を変えていくこと。その方角がわからないままきてしまった。
物事は、否応無しに変化していくから、適応していかなければならない――とは、何度も聞いたことがある言葉だ。その通りなのだろう。けれども、それはどこか自分とは関係ないことのように――いや、正確には、ぼくはそういう世界にはいないのだと思っている節がある。
ここは地上だ。
わかっている。
けれども、ぼくには尾があり、そいつが邪魔をするのだ。人混みに紛れ込むと、必ず踏まれる。幻肢痛のように、見えないけれど感じるもの――それがぼくにとっての「頭痛」であり、存在の根本的なところで、足を引っ張っているものだった。
ぼくは多分、地上と水面の間の湿地でウロウロしている両生類的な奴なのだろう。
もしも望みが叶うなら。
そんなことを考えようにも、頭痛が必ず邪魔をする。そういう周りのひとに理解してもらえるような、望ましい望みとやらを考えることのできる水準に、ぼくはいないのだ。
考えてみたら当然かもしれない。水中と地上の圧力の差。ぼくが住むには、この地上はあまりに圧力が低すぎるのだ。内臓は逆転して皮膚を破りそうになるし、適応補助剤としての頭痛薬は、もはや効かないようになってきている。
湖底に帰るときが来たのかもしれない。
無理をしている。
地上に溢れる痛みというもの。
尻尾が踏まれて邪魔ならば、それを切り落とせば良いのだ。
それが嫌なら、沼から出るな、隠れて暮らせ。
できることなら、ぼくだってそうした方がよかったのだろう。ぼく自身にとっても、頭の中にリフレクトする社会にとっても。ところが、進化の外圧は、ぼくを地上方向に押し出すのだ。吸い上げられていると言っても良い。見えない尻尾は、存在しないのだ。どこまでいっても、ぼくは人類に相違ない。
地上に生きる人々の悩みや恨み節も聞く。それらを乗り越えて、どうにかしたいと思えるだろうか。
鮮梨澄巳のことは、よく知らない。
彼女が頭痛にこだわっている理由。
・・・♪・・・
ようやく、ペルブロイの苦く若い花のような匂いが気道を通過するのがわかった。籤雨の言葉を思い出し、肺胞の隅々まで、その煙が行き渡るよう意識しながら、ぼくは深呼吸を繰り返す。
心の中に自分だけの場所を持つこと――籤雨ラチアはそう言った。彼女の場合、それはインド風の宮殿にあるような庭園だ。蓮の浮かぶ池があるものだ。大きく息を吸うたびに、蓮の花が開くところをイメージするんだ、と語ってくれたことがあった。
頭痛は破局的なレベルから、二日酔い程度にまで落ち着いてきた。
全身に血が巡っていることを意識する。
ぼくは生きている。
破裂はしていない。
「それってマジでキクんだね」と彼は言う。「こっから見ても、眼がとろーんとしてるよ」手で作った単眼鏡を覗きながら、「それって、結構マズい奴ってことになるよな」
「そうなのか?」
ぼくはコンクリートに胡座をかく。
「そりゃそうだよ。”〈存在論的頭痛〉と距離を置く”だっけ。しかし、痛みそれ自体を鎮める効果はない、って話。つまり意識に介入しているわけだ。れっきとした薬物だよ」
「考えてみれば」とぼくは煙をゆっくり吐く。「そうだな」
もともと、最初にこれに触れてから、ぼくはそのことを危惧していた。それなのに、今は自分から吸っている。いつもと優先順位が入れ替わっている。遵法意識はどこにいったんだ? とぼくの中の頭痛がせせら笑うのが聞こえた。それどころじゃなかっただろ、と答える。事実、自分の頭痛と会話できる程度には、痛みと折り合いがつけられていた。
「だろう?」と少年は言う。「
「なんだ突然」
「まあ付き合えよ、お兄さん」と言って、彼は続ける。「”机の上にリンゴがある”――これはフラットな事実だ。どんな机なのか、とか、どんなリンゴなのか、とか、だからなんだって話は語られていない。でも、日常生活では支障ないよな?」
ぼくはちょっと想像してみたが、彼の言う通りだった。
うなずく。
「で、そういうフラットな事象には、”1秒”という時間の長さも含まれている。時計の秒針が、ゼロからイチに変わる長さは、”机の上にリンゴがある”と変わらないんだ。多くの人々には了解可能、という意味ではね」
「じゃなきゃ時計の意味がないだろ」とぼくは言う。
「そゆこと」
「で?」
「でも、〈存在論的頭痛〉を抱えている人間は、とにかくこだわる。どんな机か、どんなリンゴか、だからなんなのか、ってのを細かく書いちまうんだ。たとえば、この机の上のリンゴをさ、夕焼けみたいだ、と言うだろ」
「ぼくは青い方を思い浮かべていたよ」嘘だった。
それにしても、リンゴの赤を夕焼けと結びつけたことはない。
「それだよ、お兄さん」と彼は言う。
「”机の上にリンゴがある”というフラットな事実だけを伝えるだけなら、あまりすれ違いは起きない。ただし、そこに”夕焼けみたい”とか、余計な文字を付け足すと、すれ違いが生じる。争いだって起こるかもしれない」
一つのリンゴを巡って争う事態なんて想像したことなかった。
「いくら描写を増やしたところで、対象――”机の上にリンゴがある”って事実は揺るがない。なにしろ、フラットな事実だからね。じゃあ、オレが付け足した”夕焼けみたいな”は、どこに存在するんだ? 答えは、リンゴの下だ」
「リンゴの下には机があるのでは?」
「影と言ってもいい」
「影?」
「オレ達の存在する地平の下だ」彼は親指を地面に向ける「負の方向だよ。隠遁しているんだ。そちらにリンゴは深く根を張ることになる。観念的な話だが、実際的な話でもある」
物の価値づけという話だろうか。
ある画家の絵に高い価値がついたとする。よくある話だ。たとえば、ゴッホの絵は生涯で一枚しか売れなかった、とか読んだことがある。今では世界的に有名な画家であり、そうとされるまでには多大な努力が払われた――確か、彼の弟の妻の尽力だ。その結果としての価値が、彼の絵の中にあるのか、外にあるのか、と問われると、少し困る。経済は絵の外側で回っている気がする。
しかし、リンゴについてのモノローグはどうか。それは、個人の中にあると思う。彼の言う通り、書き出せば自分の外に出すこともできるかもしれない。けれども、それが経済みたいに、社会を巡るかというと、微妙だ。売れない作家はいるし、読まれることを想定しない日記というのは多いだろう。
晴之地が言うには、それが影ということになるんだろうか。
負の方向――多分、見えない場所に、という意味なのだろうな、とぼくは判断する。
「お兄さんの〈存在論的頭痛〉も、そういうことなんだよ」
ぼくはまた何か聞き逃したのだろうか、と思う。
ペルブロイには、そういう効果はないはずだった。
「〈存在論的頭痛〉それ自体は、運動だ。痛みとして知覚されるし、場合によっては幻聴や幻覚を伴うこともあるが、根底にあるのは際限なく落ち込んでしまうこと。負の方向に渦ができるんだよな。リンゴについて無駄な描写を書き連ねるように、自分の存在そのものについて考えすぎてしまう。そういうことをされると、世界には穴が開く。その結果が、時間の停滞だ」
彼は一息入れた。
煙草を探すように、胸ポケットに手を伸ばすが、忌々しげに舌を鳴らす。
禁煙なんてするからだ。
「籤雨もおまえも」と揚々とペルブロイに火をつける。「大事なところは省略するんだよな。なんだよ、時間の停滞って」
〈頭痛の種〉に近づけば、時間の流れが遅くなり、遠のけば時間の流れが速くなることは聞いている。納得しているかといえば別だ。鮮梨と会う前、橋の上で体験はしたが、それでもまだ頭が追いついていなかった。
「あー、それは必要な文字数だ」と彼は言う。「モノローグには読者がいる。社会で生きるって、そういうことだよな。際限なく生産される思惟――モノローグを全部書き出そうとすると、必要な原稿用紙のマス目はどんどん増えていく――当たり前だよな――それを読む側の気持ちになれって話さ。頭から読む側にすれば、時間がかかって仕方がない。けれども、要点さえ掴めば、核の部分さえ越えれば、あとはすっ飛ばせる。読み終わってしまえば”机の上にリンゴがある”ってフラットな事実が乗こるってわけだ」
「要約すると短くなるって話か?」
「そういうことになるな」
ぼくは二本目のペルブロイに火をつけた。
「おまえの言うことを整理すると――本当に頭痛で世界が歪むなら――ぼくは超能力者か何かってことになるよ」
「ならない」
断言する晴之地。
「いや、アンタがそれで良いなら、そうしなよ。ただ、オレとしては、その能力は別に”超”でもなんでもない。想像力の話だからね。誰しも、何かしらのこだわりはある。ただ、アンタはこだわり過ぎてるだけだ。もっとも、心の底からそう望んで、そうなったわけじゃないかもしれないけどね。社会的要因によって、そういう態度を身につけざるを得なかった、とか。つまり処世術ってわけだ。〈頭痛の種〉ってのは、そういうことなんだよ。当人が望むと望まざるとに関わらず、育った結果、実ったもの」
彼は言いながら、手をもみ合わせる。
「現代はストレス社会です」とは、やはりどこかで聞いた言葉だ。
「そうでもある。でも、ストレスは常にあった。だから今にはじまったことじゃない」彼は続ける。「世界の危機についてもそうだ。それは常にそこにあった。万全の対策をしても、流れ弾に当たって致命傷を負うこともある」
ぼくはちょっと噛みついてみることにした。
「この頭痛はぼくのものだ」
「籤雨の説明とは違うだろうね。アンタの頭痛の原因は世界の危機を報せるもので、つまりアンタが悪いわけじゃないってアイツなら言う」
「その通りだ」
「そう。それは矛盾しないんだよ」
「ぼくの頭が痛いことと、世界の危機とやらが直結してるってことがか?」
「ん、なんか違うな」
「違うって、なにが」
「すまない。オレの言い方が悪かったみたいだね」と彼は言う。「アンタの痛みと世界の危機は明確にリンクしている。これは間違いない。だが、痛みはアンタの中で起こっていることだ。それは誰にも奪えないし、アンタにはその所有権がある。独占していいんだ」
「痛いなら痛いって言っていい、と」
「当然の権利だよね」と彼。「オレが言いたいのはさ、世界の危機が先行して、アンタの頭痛があるんじゃない、ってことだ。ここで籤雨とオレは意見が分かれる。トップダウンでもないし、ボトムアップでもない。歴史的に見れば、世界の危機は先に立っている。だからアンタ個人のスケールでも、〈存在論的頭痛〉は世界の危機を報せるもの――レゾナンスとして見えるかもしれない」
「……」
「違うんだよ。アンタは自分で〈存在論的頭痛〉にぶち当たったんだ。独力で、と言ってもいい。世界中で多くのひとが、同時多発的に〈存在論的頭痛〉を獲得している。だから、一種のムーブメントに見えるだけなんだよね。イデオロギーも幻視される――”世界の危機は存在します”ってね」
「おまえはさっき、世界の危機は常にそこにあったとか言ってたじゃないか」
「形を変えて、確かにね。世界の危機は連帯の副産物だ。アンタのような人間がゴマンといる。それぞれが自分の痛みは特別だと声をあげる。そこにムーブメントが起きて、イデオロギーができる。仮想敵は立ち向かうべき明確な敵となる。そういう方向性の話なんだよ」
ぼくは、話を整理するために、新しいペルブロイに火をつける。
「”あなたの頭痛は世界の危機を報せるものです”」
「籤雨の言葉だね」
「じゃあ、おまえ的にはどういう意味なんだ?」とぼくは訊く。
「もっと能動的な意味だ。アンタの中の〈存在論的頭痛〉って名前の怪獣を解き放て。世界に危機を報せるのは、お兄さん、アンタなんだよ」
「オレ達と世界を滅ぼしたくないか?」
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