(02-09) 火を口渡す少年
廃墟のホールには、一人の女子高生が倒れていた。
彼女に近寄る。
胸郭が膨らみ、しぼむ。
息はしている。
眠っているようだった。
彼女に近づいても、ぼくの頭痛の酷さは変わらない。ということは、この子に反応しているわけではない、ということだ。彼女の周辺の空間も歪んでいない。〈
鮮梨を連れ去ったはずの、スーツの男も、迷彩服の護衛も辺りにはいない。
しかし、頭痛はする。
二日酔いと橋での出来事。それだけではなかった。また新しい種類の頭痛だ。
何か不吉な予感があった。
ぼくの中の〈存在論的頭痛〉は、頭蓋骨の内側を揺さぶり続けていた。鮮梨澄巳以外の、何かがいる――それはとても危険な奴だ、とぼくの中の頭痛が報せてくるようでもあった。
後頭部と金属バット〈
「〈雷鳴王〉」とぼくは金属バットに話しかける。「
「そんなことする必要ないぜ、お兄さん」
声が降ってきた。
たったそれだけの言葉で、この廃墟の伽藍堂は満たされる。空気の皺を整えるような声だった。
剥き出しの鉄骨の上に、一人の少年が座っていた――と気づいた途端、頭の中で爆発が起こりでもしたような痛みがあった。ぐらん、と大きく視界が揺れる。ぶん殴られたような衝撃。ぼくは慌てて、そいつから目を離す。
見てはいけない、と直感的にわかった。
金属バットを杖にして、なんとか持ち堪える。
地面が回転しているようだった。
そこに、ポタポタと赤い雫が落ちる。鼻から血が出ていた。
「ヨッ――と」
少年は鉄骨から飛び降りる。5メートル以上はあったはずだ。嫡子する音はほとんど聞こえなかった。猫のような奴だった。抜けた天井から降ってくる雨粒の方が大きな音に聞こえたくらいだ。
「オレとしてもアンタと会ってみたかったんだよ、お兄さん」と彼は言いながら、近づいてくる。「籤雨の奴が来る可能性もあったが、まあそれは賭けだった」
カツ、カツ、と靴が鳴る。タップダンスみたいな音が鳴る。金属製の靴足が、コンクリートと触れるたび、釘が打ち込まれるような痛みが、頭に刺さってきた。地面全体が揺れるように聞こえた。ぼくの視界はぐらんと右に揺れ、左に揺れる。
「タニナキ――スーツを着た奴がいただろう、糸目の。そいつから”籤雨に連れがいた”って聞いたからさ、賭けてみたんだよな。鮮梨澄巳は――なんてことないただの女子高生だが――〈存在論的頭痛〉を抱えているし、餌にはなる。結果は、オレの勝ちだ」
少年は、ぼくの前に立ち止まった。
地面に落ちる血が増えていく。
「自己紹介が必要だろうね?」
願い下げだった。
少年は手を伸ばしてくる。その小さな手は、速やかにかつ滑らかに、ぼくの顎を掴んで、持ち上げる。柔らかな指先と、対照的な力強さ。振りほどくことはできなかった。5メートルの高さを飛び降りてきた時点で、いやその前から、予感はあったのだ――そいつは、只者じゃない。
ぼくは目を閉じた。
見てはいけない。
「目を開けなよ、お兄さん」
少年は命じる。
そして、ぼくの顎を掴む手を捻る。ピリっと静電気のようなものが走り、ぼくの意思とは関係なく、瞼は静かに開いていく。どういう手品だ、とぼくは思う。そう、こう思ってしまうことすらも、すでにぼくは体験済みなのだった。
亡霊みたいに白い肌が見えた。
薄い藤色の髪に、濃い紫色の瞳。
「オレの名前は、
“見ればわかる”と籤雨は言った。
そいつは、籤雨にそっくりだった。
・・・♪・・・
そいつと目を合わせたとき、グッと胃のあたりが持ち上がる感触があった。ボディブローでも叩き込まれたようだ。思わず、ぼくは吐き出してしまう。血の塊のようなものが出た。煙草を吸いすぎた後みたいな、デカい綿が地面に落ちる。内臓が丸ごと飛び出したみたいだった。
「あーあー、汚いなあ」
ひらりとかわして、彼は血を避ける。
「ほら、お兄さん。ちゃんと拭かないと」
彼はまた軽やかに距離を詰めてきて、ぼくの腕を掴む。ぼくの袖口でぼくの口を拭く。袖には粘性のある血液がこびりつく。最悪だった。
そして、ゴミでも捨てるようにぞんざいに、ぼくの腕を投げる。
全身に力の入らないぼくだ。糸の切れた人形のように、その場に投げ飛ばされる。籤雨的腕力。胸元のポケットから、タバコのケースが飛び出した。中身がこぼれ落ちる。
彼は手のひらを陽に透かすように見る。
「毎回そうなんだけどさ、やっぱりショックだよな」
血がついていないことを点検しているようだった。
「オレの眼を見ると、〈存在論的頭痛〉は暴走する。具体的な原理はあるよ。七面倒くさいやつがさ。でもまあ、簡単に言うと、王侯貴族に
彼はそう言って、近くに転がっていたパイプ椅子に座る。
不釣り合いなほど長く細い脚を組み、膝の上に組んだ手を置く。
「もっとも、相手がロイヤルな人間かどうかは、判別できる奴とできない奴がいる。纏うオーラっつーのに鈍感な奴もいるわけだ。不幸なことにね。オレの眼を見ても反応しない奴はいるが、〈存在論的頭痛〉を抱えている奴は違う。その強度に応じて、反応の強度も変わってくる」
つまり、と言ってそいつは、ぼくに指鉄砲を向ける。
「お兄さんには、だいぶ素質があるってことなんだよ。籤雨の奴が連れてくるわけだ」
ぼくは身動き一つできなかった。
地面に転がる煙草の数すら覚束ない。
フィルター部分が茶色いものと、白いものが転がっている。それって妙だ。ぼくが愛飲しているクロムデッドのフィルターは茶色い。そこに、白い物が混じっている。いつの間に、とか、誰がそんなことを、とか疑問が浮かんでは、消えていく。
どれも正しくなかった。
間違いなく、籤雨の仕業だ。
彼もぼくの視線に気づいたようだった。
「そうだな、このままじゃ話もできやしない。拾うことを許すよ、お兄さん」
彼はそう言うが、ぼくは
「そうだな、それを吸うべきだ」と彼は言う。「それ、ペルブロイだろ。〈存在論的頭痛〉と距離を取る作用があるとかいう」
しかし、ぼくの方は、手を伸ばそうにも全身が痛い。
「仕方ないな――っと」
彼はパイプ椅子から飛び降りて、カツンカツンと歩いてくる。
地面に転がっていた、白いフィルターの方を掴む。
「ペルブロイ、ね。混じってるところを見るに、籤雨の仕業だろ。で、籤雨の仕業ってことは、お兄さんに気づかれないように混ぜたわけだ。あいつはそういうことをする」
彼は煙草を鼻の下に持っていって、匂いを嗅ぎ、舌を出す。
「嫌な匂いだよな。不吉な匂いがする。仏壇みたいな匂いだよな? なんだってこんなものを吸うのかねえ」
箱の方からペルブロイを取り出し、そちらを自分で咥える。
ポケットから、マッチボックスを取り出し、火をつける。
「ああ、吸っちゃったよ」
そいつは、うち伏せになってるぼくの腹の下に爪先を差し込み、蹴り飛ばすように上を向かせる。少し体が地面から浮き、そして落ちる。剣山の上に落ちたみたいに、痛みが走った。血が喉に絡み、咳が出る。またしても赤い綿が出る。
「なんで人間ってのは、こう弱いのかね」と彼は言いながら、しゃがむ。「まあ良いや。ほら、口を開けなよ」そう言いながら、彼は今度は指先でぼくの顔を持ち上げ、口にペルブロイをねじ込む。抵抗なんてできなかった。たかが指先でも、そいつに触れられると、ぼくの体は硬直してしまう。
煙草の先端が触れる。
口の端で彼は言う「吸い込みなよ。タイミングが大事なんだ」
ぼくの意思なんて関係なかった。
彼がそう命じれば、ぼくの体はそのように動く。
かくして火がぼくの方に渡る。
若くて苦い花の味。
シガーキスなんて初めてだった。
「マッチはあれがラストでね」
ぼくの顎を投げるようにして、手放す少年。
ペルブロイも吹き出して、靴の先で揉み消す。吸い殻を蹴っ飛ばして、ぼくの方に寄越す。
「これでも禁煙の身だ。煙草は持ち歩かないし、マッチも一本しか持ち歩かない。火種があれば、その分吸っちゃうだろ? じゃあマッチ一本は何かって、それは未練だな。これでも人間のフリをしているからね」
彼はそう言って、再びパイプ椅子に座る。
「火のないところに煙は立たず、先立つ者には未練があるんだ」
意味のわからないことをそいつは言う。
そういうところまで籤雨そっくりだった。
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