参:忍び

 カーテンを閉め忘れたからか、朝陽のまぶしさで目を開く。あれから結局ぐっすりと眠ってしまったみたい。

 課題は既に学校で終わらせているから、別に慌てる必要はないけれど……斑にした依頼について下調べをしたかったのにな……と少し後悔しながら起き上がる。

 両親に会わないように忍び足で洗面台まで移動してさっと顔を洗い、まだ少したばこ臭い制服に芳香剤を噴きかけてから家を出た。

 ピィピィと囀る鳥の中に、ホウホウと野太い声で鳴く鳥が混じる。最近聞くことが増えたような気がするけれど、気のせいなのだろうか。

 妖怪あやかしのことは多少わかるけれど、野鳥のことまでは詳しくない。こんな時、兄様ならすぐに色々と教えてくれるのに。

 三年前、まだ兄様がいなくなる前には毎日一緒に登校していた。高校生になった兄様と一緒にいられる時間が増えるからと無理をして中高一貫校を受験したのに、まさか兄様があんなことになるなんて……。あと一年は一緒に通えると思ったのに……と考えると、貴重な時間を私から奪ったあの怪物ケモノも、あいつを唆した犯人も許せないという気持ちが高まってくる。

 でも、今はそれよりも近隣一帯の女子たちを呪っている犯人を捜さないと……。


「おはようゴざいます」


 片言の元気な挨拶が聞こえて、目を向ける。明るい褐色の髪を後ろでひとつにまとめている外国人の女性は、半戸ハントセシーリアさんという。彼女は、昨年事故でお子さんと旦那さんを亡くして塞ぎ込んでいた。

 つい最近まで、姿を見ることがなくて心配していたけれど、旦那さんの知り合いに支えてもらいながら元気を取り戻したらしい。最近ではボランティアとして通学路の見回りや、繁華街で徘徊する子供に声かけに勤しんでいる。大切な存在を失って立ち直った彼女は、私が密かに尊敬をしている大人のひとりだった。


「おはようございますセシーリアさん」


「Oh……! ナルイさん、元気デスね」


 朗らかな挨拶をするセシーリアさんに挨拶を返して、私は少し良い気分になりながら学校へ向かった。

 でも、そんな良い気分はすぐに台無しになる。

 校門前に出来ている人集りに嫌な予感を募らせながら近付いていくと、一人の背が高い男が壁に寄りかかりながら辺りを見回していた。

 スッと通った鼻筋、透き通るように白い肌、華奢な骨格にも拘わらず細い首筋で自己主張をしている喉仏。手にはブランドものの紙袋。そして少しゆるめの白いサマーニットを着ているけれど大きく開いた胸元には狼を模したトライバルのタトゥーが顔を覗かせている。

 忌々しいくらい美しいそいつは、顔をあげると私の方をまっすぐに見てへらりと口元を緩めた。

 斑を遠巻きに見ていた男子も女子も私の方を見て意外そうな表情を浮かべると、そそくさと学校の中へと入っていく。


 早足で近付いていって、斑の腕を掴んだ。グイッと引っ張ってにやけた顔を自分の方へ引き寄せる。


「目立つ真似はよしてちょうだい」


 ニヤニヤとして反省の色を一つも見せない斑の腕を掴んだまま、とりあえず目に付いた喫茶店の中にこいつを引きずりながら入る。

 店員に「奥の席に行きます。アイスコーヒー二つ」と最低限のことを伝えて、壁際に斑を押し込むように座らせた。


「そぉんな照れるなよ。お兄ちゃんが可愛い妹のために学校まで来ただけだろう?」


「お前は兄様ではありません。それに……兄様も通っていた清く正しいこの学校へお前みたいな者が来ては風紀が乱れます」


 本当にこいつはどこまでも腹立たしい。苛立ちを隠すように置かれたアイスコーヒーを半分ほど喉に流し込み、ヘラヘラと笑っている斑を睨み付ける。

 単なる嫌がらせで、わざわざここまで来たわけではないだろう。溜息を吐いていると、斑がどこからか取りだした灰褐色の羽根をテーブルの上に置いた。


「この鳥の妖怪あやかしを調べてたら、近くにきたもんで、お嬢様の顔を見に来たってワケよ」


「さっさと用件を述べなさい」


 無駄話をしている時間はないし、こいつと楽しくおしゃべりをする間柄でもない。こいつは兄様を奪った原因の一つなのだから。

 睨み付けてやると、斑は芝居がかった仕草で肩を竦めて持っている紙袋を私に差し出した。

 中を覗いてみると女物の服が数着畳んで入っている。


「おぼこのお嬢様にはちょぉっと難しいかもしれないけどさぁ……この服を着て家、抜け出してくんない?」


 感情や好き嫌いを表に出すべきではない。当主の動揺を喜ぶ者はニンゲンにも物の怪にもいるのだから。

 そう思っていたけれど、あまりにも不快な言葉遣いに表情が歪むのが自分でもわかった。ケラケラと声を立てながらお腹を押さえて笑う斑を睨むと、斑は頬杖を突きながらストローでアイスコーヒーを一口啜る。


「できねえなら、どーしよーもねえし、オレとしてはここで終わりでもいいんだけどさぁ。そしたら、お嬢様は対価を支払わなくて済むし、オレの仕事を骨折り損にできるってワケ」


わたくしの目的は、兄様の責務を軽くすることであって、お前に嫌がらせをしたいわけではありません」


「じゃあ、やるってことでいいんだな?」


 うまく載せられてしまった気がする。いえ、ちがうわ。

 私は次期当主代理としての英断をしただけで、うまいように載せられたわけでは決してない。

 紙袋を受け取って時計を見ると、一限がちょうど終わった時間だった。


「次期当主代理に二言はないわ。兄様のためならこんなことくらい平気よ」


「ああ、美しい兄妹愛ってやつだねぇ」


 ヘラヘラと笑いながら声をかけてくる斑を無視して店を出た私は、早足で学校へ向かう。

 ブルルとポケットの中でスマホが震えたので見て見ると「今夜23時門の外で待つ」と簡潔なメッセージが斑から届いていた。

 あいつの声と顔はやはり気に障る。私の心を乱してくる。このまま文字だけでやりとりできたらマシなのに。

 そう思いながら教室の扉を開けた。誰かが気を利かせて先生に私は遅刻すると伝えてくれたのか、特に心配もされていなければ実家に電話もされていないようだった。

 ホッと胸をなで下ろしながら、休み時間のにぎやかな教室で自分の席に座る。

 次の授業は……と時間割を見ながら教科書を机の上に出していると、少し派手目なグループの女子が数人私を取り囲んでいた。

 首を傾げて彼女を見ると、興味本位というような感じでリーダー格の女がおずおずと口を開く。


「あのぉ……成井さん、今朝、校門にいた素敵な男性は恋人、なのかしら?」


 この子は高校から入学してきたから、兄様のことを知らないのも仕方がない。

 唇の両端を持ち上げて、無理矢理に笑顔を作ってアレのことを説明する。見た目だけなら、本当に完璧なのに。


「ああ、アレは兄なんですよ」


 イヤイヤながらもそう述べると、最初は驚いていたけれどなんだかんだ目元が似ているとか髪質が似ているとか好き勝手なことを言って盛り上がった挙げ句に「じゃあね」と一方的に彼女たちは去って行った。

 嵐のような人達だ。溜息を吐きながらもそれ以降は特に面倒なことを聞かれずに無事学校は終わった。

 まっすぐに帰宅し、母に具合が悪いと嘘を吐いて部屋に籠もる。夜に抜け出すなんて言ってもきっと母は許可してくれないだろうから……。

 

 部屋の扉に鍵をかけて夜まで過ごす。先日のことがあったからか、母も父も深入りしてこない。それとも、うちを襲った同業者について何か進展があって忙しかったりするのだろうか?

 まだ父は直接教えてくれたわけではないけれど、祖父が亡くなってから成井家は影響力を弱めたみたいな話も耳にする。でも、それもきっと兄様が戻ってきたら大丈夫。

 そう自分に言い聞かせて、早い時間だけどベッドに横になって仮眠をした。


 ――PPPPP


 アラームの音で目を覚ますと、ちょうど約束の時間だった。斑から受け取った服を身につけて窓から外に出て屋根を伝って外に出る。

 気を利かせているのか、ヒールが高くて歩きにくいけれど靴を入れていたのは助かった……随分と派手で好きなものではないけれど。

 門をよじ登って外へ出ると、少し離れたところに黒い薄手のパーカーを身に纏い、ポケットに両手を突っ込んで立っている男が立っていた。綺麗な黒髪を見れば嫌でも斑だとわかる。

 なんとなく不快に思いながら近付いていくと、私に気が付いた斑がにたりと笑いながら右手を挙げた。

 そのまま捕まえたタクシーに乗り込むと、斑が私の上着に手をかける。何をするのと怒ろうとしたのを見抜かれたのか「そういうんじゃないってぇ」と言いながら斑は袋をごそごそとしてシールみたいなものを取りだした。

 肩にぺたりとそれを貼って透明なシートを剥がしていく。それがタトゥーシールだとわかってムッとしながらも動じたところを見せたくなくて、斑に言おうとしていた文句を飲み込んだ。


「お嬢様ぁ……夜遊びにすっぴんはないってぇ」


「好きにしなさい」


 私の顔を見て溜息を吐いた斑は、テキパキと化粧道具を取りだした。手慣れた様子で私の顔にアレコレ塗ってくるのも腹が立つ。

 タクシーの運転手とバックミラー越しに目が合うも、気まずかったのか彼はそそくさと目を逸らしてしまった。

 兄様の見た目でこういう女々しいことをされるのは気に食わない。いや、兄様なら何でも出来るから化粧だって出来るはずだけれど……。

 こいつといると、私は私らしく振る舞えない。さっさと目的を果たして離れないと。

 鏡を見せられて、その出来映えの良さに驚きはしたけれど、次期当主代理としてここで乙女のようにはしゃぐのは相応しくない。


「行きましょう」


 それだけ告げて、ちょうど止まって開いたタクシーから降りた。

 料金を支払い追えた斑が後から来て、私の肩を抱きながら前へ進む。非難しようとしたけれど「お嬢様を悪い虫から護るためさ。辛抱してくれよ」と耳元に口を寄せて囁かれた。

 周りの男女はだらしなく抱き合ったり、舌を絡め合ってったりしているのが目に入る。ああ、確かにこれなら誰かに手を付けられていると見られた方が多少屈辱的でも仕方ないのかもしれない。

 なんでもないという表情を作りながら頷いて、重い金属の二重扉を開く斑と歩調を合わせる。


「あなタ……ちょっと」


 声が聞こえて、思わず振り返ると見覚えのある人が少し遠くにいた。セシーリアさんだ。

 彼女から露骨に目を逸らして、私はそそくさと斑と共に扉の中へ逃げ込んだ。

 金属で出来た二重扉の内側に足を踏み入れてみると、甘ったるい変な匂いと、耳をつんざくような重低音に襲われてめまいがする。

 そっと肩を支えられて、手慣れた足取りで私を壁際の方へ連れて行った斑が「待ってろ」とだけ言って離れていく。どこへ行くのなんて声は周りの騒音にかき消されてしまった。

 すぐにミネラルウォーターのペットボトルを手にした斑が戻ってきたので少しだけ安心をしながら、差し出されたそれ受け取って一口飲む。けれどめまいと吐き気は治まらない。

 声もなかなか聞こえない。ニタニタ笑っている斑が私の肩に手を伸ばした。ずるりと体を粘着質ななにかが撫でる感覚がしてぞっとしながら斑の指先を見つめると、そこには黒く蠢く肉塊が摘ままれていた。

 彼はそれを一呑みして舌なめずりをする。


「お嬢様、相変わらずあんたはこういうのに好かれるんだなぁ? オレとしては軽食を楽しめるからいいケドさ」


 不快感を露わにしてしまってから、慌てて取り繕う。次期当主代理として正しい立ち振る舞いをしなければならない。


怪物ケモノ師としての才はアレだが、巫女としてなら千年に一人出るかどうかの逸材なのになぁ」


 それは誰よりも自分がわかっている。だから、兄様を当主として呼び戻したいのに。

 私の心を見透かして、揺さぶるように振る舞ってくるこの怪物ケモノの言葉は本当に不愉快だ。

 少し楽になった体を起こそうとして、斑の脇の下から建物の中へ目を配る。すると、派手な緑色の髪をしたボブカットの女が私たちを見ていることに気が付く。

 女は私と目が合ったことに気が付くと虚ろな目をしながら口元だけ笑みを浮かべるという不気味な表情のままこちらへ歩み寄ってきた。

 微かに甘い香りがする。斑の部屋で嗅いだときと同じような……。


「ねえねえ……もしかしてさぁ……生理が来なくてこまってなぁい?」


 私の耳元まで顔を寄せてきた女が発したのは、耳を疑うような発言だった。

 カッとなって言い返しそうになる私の口が塞がれる。代わりにヘラヘラと軽薄な笑みを浮かべた斑が女の腰に手を回して、彼女の耳元に自分の顔を近付けた。

 まるで楽しい内緒話をする恋人たちのように微笑み合い、軽い口付けをしながら話す二人を悍ましいと感じながらも逃げるわけにはいかないので、私は大人しく壁際でミネラルウォーターのペットボトルを傾ける。

 熱気に包まれた室内の奥にあるステージでは自らの体にフックを刺している女性が吊り上げられて、ゆっくりとその場で回転している。


「サスペンション、見るのはじめてでしょ?」


「は、はあ」


「多いんだよねえ。こういうイベントに慣れないのに来てる子。ほとんどアレ……探してるんだぁ」


 斑とは話し終わったのか、さっきの女が急に話しかけてきた。少しだけ冷静になった私は女の話を無知で素直な少女のフリをして聞いてみる。

 イベントになれないのに来てる子……と言われて、最近具合を悪くして学校へ来ていない友人たちを思い浮かべる。でも、まさか。彼女たちも、生理がこなくなるような行為を、あの獣のようなだらしない行為をして、その果てにこんな場所でなにかに頼らざるを得なくなったということ?

 驚いている私の目の前で、女が口を開くように笑った。口の中にある舌は二股に分かれていてなまめかしくぬらぬらと動いている。


「まじめそうなのにこーんな男に孕まされちゃって……かーわいそー。ねえ、あーしなら知ってるよ。だって昨日堕ろしてきたばっかりだしさ。なんかヒトのよさそーな外人のオバさんが教えてくれたんだけど」


 女は私を見て笑ってから、上目遣いで斑にしなだれかかる。


「ねーえ! さっきちゃんと目的の場所、教えたんだから今度はあたしとしよーよ。後腐れ、ないよ」


「いいよぉ。今度、またここで会えたら運命ってコトで」


 舌を絡み合わせる口付けを交わす斑と見知らぬ女を殴りつけたくなる。私のお兄様を穢すな! そう怒鳴れたらどんなにいいだろう。

 熱気、血、重低音、アルコールの香り。なにもかも兄様と遠くて気持ち悪くて大嫌い。

 兄様はもっと綺麗で冷たくて静かで心地よかった。こんなところに兄様も私もいるべきではないのに。

 纏っていた清らかでシンとした空気を思い出す。ここは兄も私もいるべきではない。

 歯噛みをしながら斑を見ると「明日、じゃあ予約させてよ」と女の耳元で囁いているのが聞こえた。こんなやつでも、頼んでいた仕事を遂行するつもりはちゃんとあるらしい。

 仕方なく、女の耳を指で弄び、唇で食む斑の行動を黙認する。兄の顔で、兄の体でそんなことをしないで……そう言いたいのを抑える代わりに手の甲に爪を立てて耐える。

 スマホを取りだした女が何度か画面をタップして、斑の口内を貪ってから「出来たよ」と告げたのを私は見逃さなかった。

 軽薄そうな笑みを浮かべた斑の指先で腰を撫でられ、媚びた声を上げる女に耐えられずに、私は斑の腕を掴んで引っ張った。

 半ば体当たりをするように重い扉を開いて、外に出る。少しだけ嫌な匂いも大きな音も和らいでやっと深く呼吸が出来た。

 建物の隅にまで斑を連れていき、息を整えてから、背筋を伸ばした。ウィッグを脱いで斑に投げつけながら、私は極めて冷静に疑問をこいつにぶつけることにした。


「どういうことなのです?」


「お嬢様のが世話になったトコを探してやったんだってぇ」


 落ちたウィッグを拾った斑がニタニタ笑いながら顔を近付けてくる。


「だから、詳しく話しなさい」


「お嬢様が解決しようとしてる呪いはさぁ……子を孕んだ女に発動する呪いってこと」


「……え」


 予想外の言葉に思わず言葉を失った。だって……彼女たちは勉学を共にしていて、それに素行も良くて派手な子たちみたいに恋愛にうつつをぬかしていなかったのに。

 確かに最近恋人が出来たとか、出かけるからと勉強会の頻度は減っていて、しばらくぶりに来た連絡が「悪夢を見る。声が聞こえる。沙羅のおうち、そういうのを解決できるすごいお家なんだよね?」という助けを求めるようなものだったのは確かだ。

 でも……。


「だって……彼女たちは真面目で……そんなくだらないことをするとしてもリスク管理くらいは」


「ヒトの良さそうな白人の女が、悩んでそうな女を見つけて声をかけてるらしい。良いクリニックだから口コミで広めてあげてって言葉と一緒になぁ」


 斑の言葉もうまく頭に入ってこない。こんなことで取り乱していては付けいられてしまう。

 いつでも正しく振る舞わなければ怪物ケモノを従えること何て出来ない。だから、落ち着かないといけない。

 でも、斑は何も言わずに私を抱き寄せるだけだった。腹立たしくて彼の胸を叩くけど、何も言わないで私を抱きしめる腕に力を込めるだけだ。黙っていられると兄様を思い出すから嫌だ。

 父に叱られて泣いていたとき、兄様はよくこうやって何も言わないで私を抱きしめて頭を撫でてくれたから。

 顎に手を当てられ顔を上げられる。そのまま兄様の顔が近付いて来て私は思わず目を閉じた。スッと冷たいものが目に当たって驚いて体を強ばらせると「メイク、落としておかねえとなぁ」と掠れた声の斑が耳元で囁く。話し方でこいつが斑だと言うことを思い出す。胸を思い切り突き放して道路へ歩き出すと、ヘラヘラした顔で斑が追いかけてきた。


「来ないで。帰ります」


 右手をまっすぐに上へあげると、タクシーが目の前で止まってくれた。


「大切な我が主の妹君だ。ちゃぁんと家まで送っていくさ」


 肩を抱かれてタクシーへ乗り込む。不快だけれど、さっき抱きしめてくれたときに兄様のことを思い出せたから、馴れ馴れしいのは少し大目に見てやろう。それくらいの情けは怪物ケモノにかけてもいいはずだ。

 タクシーは空いた深夜の道路を端ってあっと言う間に実家近くへ到着した。どこからか降り注いでくるように聞こえる鳥の声を聞きながら車を降りて、斑を足蹴にしながら門をよじ登った。

 さっきまで口数が少なくて快適だったのでこれからも黙っているように命じようかと思案していると、斑が「明日……っていうか今日か。待ち合わせ、よろしくな」と言ってメモをポケットに捻じ込んできた。

 手の甲を向けてシッシと追い払いながら、門の内へ入って辺りを見回す。まだ、誰も起きている気配はない。

 雨樋と屋根を伝って部屋へ戻ると、タバコとのんでもいないアルコールの匂いが酷い。シャワーを浴びて嫌な気配とべたつきを洗い流す。

 今日は散々だった。あの怪物ケモノが言ったことは、どこまでが本当のことなんだろうか? 古に交わした約束であいつも、全ての怪物ケモノも成井家の者には嘘をつけないはずだ。だから、友人たちが子を孕み、堕胎したというのは信じても良いのだろう。でも、なんで……。

 暗い気持ちになりながら、浴室から出て、ベッドに横たわる。髪を乾かさないと……と思ったけれど、疲れているみたいで体がうまく動かない。


「兄様……」


 抱きしめられたことを思い出しながら、自分で自分を抱きしめる。私を抱きしめた筋肉質な腕を思い出すと体の真ん中がじんわりと熱を帯びる。兄様、きっと私が助けてみせるから。

 別れ際に渡されたメモを開いてみると「明日、9時に新大久保駅」とだけ書いてあった。兄様とは全然違う筆跡で、私の熱もすっと冷めていった。

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